京都地方裁判所 昭和60年(ワ)1066号 判決 1990年9月27日
原告 国
代理人 市川正巳 原田勝治 高村一之 田中清 松村雅司 高山浩平 山本栄一 鈴井洋 藏本正年 薮内宏美 ほか七名
被告 大山進 ほか三名
主文
一 別紙物件目録一ないし九記載の各土地について、原告が所有権を有することを確認する。
二 被告大山進は、原告に対し、右各土地について、真正な登記名義の回復を原因とする所有権移転登記手続をせよ。
三 被告朝銀京都信用組合は、右各土地について、別紙抵当権目録一及び四記載の根抵当権設定登記の、被告信用組合京都商銀は、別紙物件目録一ないし五及び九記載の各土地について、別紙抵当権目録二記載の、別紙物件目録六ないし八記載の各土地について、別紙抵当権目録三記載の各根抵当権設定登記の、被告新京都信販株式会社は、別紙物件目録一ないし九記載の各土地について、別紙抵当権目録五記載の抵当権設定登記の各抹消登記手続をせよ。
四 別紙物件目録一ないし九記載の各土地について、被告朝銀京都信用組合は、別紙地上権目録一記載の地上権設定請求権仮登記の、被告信用組合京都商銀は、同目録二記載の地上権設定請求権仮登記の、被告新京都信販株式会社は、同目録三記載の地上権設定仮登記の各抹消登記手続をせよ。
五 被告大山進は、原告に対し、別紙物件目録一ないし九記載の各土地上にある樹木及び石積を収去して右各土地を明け渡せ。
六 訴訟費用は被告らの負担とする。
七 この判決は、第五項に限り、仮に執行することができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 主文第一項ないし第六項と同旨の判決
2 第五項につき仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する被告らの答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二当事者の主張
(請求原因)
一 別紙物件目録一ないし九記載の各土地(以下「本件各土地」という。)は、もと通称摺鉢池(以下「本件池」という。)の一部であり、被告大山進(以下「被告大山」という。)による埋立てによってできた土地である。
二 被告大山は、本件各土地について、所有権移転登記を有し、かつ、右土地上に樹木を植栽し及び石積を築いて右土地を占有している。
三 被告朝銀京都信用組合(以下「被告朝信」という。)は、本件各土地について、別紙抵当権目録一及び四記載の各根抵当権設定登記及び別紙地上権目録一記載の地上権設定請求権仮登記を、被告信用組合京都商銀(以下「被告商銀」という。)は、別紙物件目録一ないし五及び九記載の各土地について、別紙抵当権目録二記載の、別紙物件目録六ないし八記載の各土地について、別紙抵当権目録三記載の各根抵当権設定登記及び本件各土地について、別紙地上権目録二記載の地上権設定請求権仮登記を、被告新京都信販株式会社(以下「被告新京都信販」という。)は、本件各土地について、別紙抵当権目録五記載の抵当権設定登記及び別紙地上権目録三記載の地上権設定仮登記をそれぞれ有している。
四 被告らは、原告の本件各土地に対する所有権を争っている。
五 原告は、以下の原因により、本件各土地の所有権を取得した(選択的に主張する)。
1 社寺領上知令に基づく所有権の取得(原告の所有権取得原因―その一)
(一) 本件各土地の沿革
本件各土地は、京都市右京区太秦三尾町(元京都府葛野郡中野村(以下「旧中野村」という。)字三尾山にかつて所在した本件池の一部であったが、旧中野村は、近世仁和寺の寺領(朱印地)であった。
(二) 社寺領上知令による上地(上知)
(1) 慶応三年一〇月一四日、徳川幕府(将軍慶喜)の大政奉還によりその領有地は明治政府の所有に移され、次いで、明治二年七月諸侯の版籍奉還によって各藩主の領有地もすべて同政府の所有に帰した。
しかし、社寺領は依然旧来のまま残存し、その介在が奉還藩領の整理をする上においても障害となっていたので、明治四年正月五日、社寺領上知の太政官布告(以下「社寺領上知令」という。)が発布され、「現在ノ境内ヲ除ク外」の「朱印地除地等」の社寺領はすべて明治政府の所有に帰した。
(2) 社寺領上知令の発布により、旧中野村は上知され、もって本件各土地も原告の所有に属することとなった。
2 地租改正に伴う官民有区分による所有権の取得(原告の所有権取得原因-その二)
(一) 地租改正事業の概略
(1) 地租改正事業の意義
明治政府は、財政基盤の確立を図るため、全国画一的な近代的税制度の制定を意図し、いわゆる地租改正と称される一連の事業を実施した。そこでの近代的税制度とは、従来の物納貢租制度を廃し、地価を課税標準とする金納定率の地租制度にほかならない。したがって、地租改正は直接的には税制改革であるが、右のような新税制を実現するには必然的に旧来の複雑な土地支配関係を解体し、「一地一主」の原則に立った近代的所有権を確立することが要求され、また、その過程で当然地租を課する民有地と地租の対象とならない官有地とを画然と区分し、その上で民有地についてはそれぞれの範囲、地価等を定め、かつ、その所有権者を確定する作業が不可欠となる。したがって、地租改正事業は、土地に対する近代的所有権確立の事業の側面を有するといえる。
(2) 土地永代売買の解禁及び壬申地券の交付
明治五年二月一五日の太政官布告第五〇号は、田畑永代売買禁止を解除し、土地取引の自由を認めた。これをもって土地に対する近代的所有権確立の先駆的施策といえようが、これに先立って明治四年一二月二七日太政官布告第六八二号により、従来免税地とされてきた東京府下の市街宅地について地券を発行し、地租を収納することとした。以後、この取扱いが、全国の市街地に拡大され、いわゆる市街地券が発行された(市街地については地券記載の地価により地租を課すこととされた。)。一方、市街地以外の郡村地についても、明治五年二月二四日大蔵省第二五号、同年七月四日大蔵省第八三号により地価を表示した郡村地券が発行交付された(ただし、郡村地については依然として維新前の貢租制度が維持されていたから、地券は課税標準表示の機能を有していなかった。)。
(3) 地租改正
壬申地券の発行に当たっては、当然各土地ごとに地目、反別、地価、所有者を確認するための調査が必要であるが、明治政府は旧来の検地に対する国民の不信感を考慮して積極的な地押丈量を行わず、従来から存する検地帳、水帳等の公簿と自主申告に依拠した。
このように壬申地券の発行は、それ自体いまだ旧来の税制を改めるに至らず、その前駆的な作業ともいうべきものであり、しかも、その発行作業も遅延していたのであるが、明治政府は、明治六年七月二八日太政官布告第二七二号「地租改正条例」、同月「地租改正施行規則」並びに同日大蔵省事務総裁「地方官心得書」からなるいわゆる地租改正法令を発布し、本格的な地租改正事業を開始した。
この地租改正事業は、現物貢納を廃し、地価に基づく金納定率の地租制度を実施すること、土地の所有者がその納税義務を負担すること等を骨子とする。この地租改正事業は、全国的には明治一四年にほぼ終了したとされるが、その過程で、土地の丈量、地図(いわゆる「改租図」)の作製、「地所名称区別改定」等官民有区分に関する重要な法令の発布等が行われた。
この地租改正事業の成果として、いわゆる改正地券が発行され、その原簿として地券台帳が整備されたのであるが、右地券によって土地の所有権が公証されるとともに課税標準たる地価が表示されることとなった。
(4) 地籍編纂
地租改正事業の一環ではないが、近代的所有権の創設を論ずる上で無視できない事業に地籍編纂事業がある。
地租改正事業は大蔵省により進められたが、これとは別に、内務省は、明治七年一二月二八日内務省達乙第八四号をもって、明治八年三月から官員を全国に派遣して地籍編纂調査に着手する旨通達した。地籍編纂は、「施政のために常備すべき基本資料の整備を意図したもの」であり、全国のすべての土地を官有民有を問わず所定の地種の区分に従って類別し、面積、所有者等を確定させて、村ごとの地籍及びこれを集計した郡地籍並びに地図等を調整しようとしたものである。しかし、この事業は途中一旦中断したことなどもあり、全国的には明治二〇年代に至ってもなお続けられた地方もあったが、結局完成しないまま終わった。
(5) 地押調査
明治政府は、それまでの地券及び地券台帳制度から土地台帳制度に移行することを企図し、明治一七年一二月一六日大蔵省達第八九号「地租ニ関スル諸帳簿様式」を定め、町村戸長役場に「政府ニトリテハ地租ヲ課スルノ元本トナリ又土地所有者ニトリテハ自家不動産ヲ明記セル正本」(明治二一年「地押調査ニ関スル主税局長ノ口演」)となる土地台帳を備え付けることとした。しかし、地租改正後において「人民ノ随意上ヨリ土地ヲ変更セシモノ漸々積ヲ巨多ノ数ニ上リ」(前同)、しかも、「地租ノ遺漏脱落地モ亦タ少ナシトセス」(明治一八年「地押調査始末」)という状況にあった。そこで、大蔵省主税局は、従来の帳簿、図面の誤りと不備を訂正し、実地と帳簿、図面との齟齬錯乱がないようにするため、明治一八年二月一八日、大蔵大臣訓令主秘第一〇号「地押調査ノ件」をもって、地押調査の施行を命じ、右地押調査は、以後明治二一年ころまでの四年間全国的に実施された。
(6) 土地台帳の備付け
明治政府は、地押調査がほぼ全国的に完了し、これと併行して前記「地租ニ関スル諸帳簿様式」に基づく土地台帳の編製が進行していたことから、その成果を反映させるべく、明治二二年三月二二日勅令第三九号「土地台帳規則」を発布し、また、同日法律第一三号をもって地券制度を廃止し、土地台帳制度に完全に移行することにした(なお、これに先立つ明治一九年八月一三日法律第一号「登記法」の制定、施行により、地券は土地所有権の公証機能を喪失していた。)。また、地押調査の過程で併せて地図の新調(いわゆる「更正図」)がなされ、これをもって土地台帳附属地図とした(ただし、実際は、狭義の地租改正事業の際作製された改租図をそのまま、あるいは一部修正して右附属地図とした例が多かった。)。
(7) 小括
このように、明治期において、官民有区分の作業が実施され、また、土地(民有地)の所有者に対する地券の交付並びに右土地についての地券台帳及び土地台帳への登載等により私的所有権が公証されてきたことは疑いのない事実である。
そして、前述のとおり、官民有区分や私的所有権の確認は、専ら一連の地租改正事業の過程での壬申地券の発行、狭義の地租改正事業、地押調査等における調査段階でなされたものといえる(もっとも、地租改正事業とは直接関係のない地籍編纂事業に際しての調査段階でも官民有区分がなされているはずであるし、また、これらの事業とは関係なく、他の行政目的から個別の土地について官民有区分がなされたこともあったであろう。)。しかし、いずれにせよ明治政府は、土地の官民有区分それ自体を唯一の目的とした統一的事業を実施したことはなく、したがって、そのような目的のための独立した中央法令も存在しない。専ら地租改正事業とのかかわりの中で官民有区分の基準の定立及び私的所有権の具体的設定がなされたことに留意すべきであろう。すなわち、官民有区分は、前近代的な土地の支配形態を今日における抽象的、包括的な所有権に引き直すこと、換言すれば、土地について近代的な所有権を確立し、そのうえで特定の土地を官民のいずれかに仕分けするという困難を伴う作業であったのであり、それは単なる事実もしくは権利の確認作業ではなく、個々の土地について今日的な意味での所有権を現実に初めて付与(創設)するとともに、これを官民のいずれに帰属させるかを決する法的価値判断作用であり、形成的な創設処分である。
しかして、土地所有権の発生、帰属は、原則として民有地区分又は官有地区分という行政処分により決定されるものであるから、自己が所有権者であると主張する者は、その根拠となる右のいずれかの行政処分が行われたことを主張立証すべきである。すなわち、ある土地が民有地であると主張する者は当該土地につき民有地区分が行われたことを主張立証すべきであり、国が当該土地が官有地であると主張する場合は、国が当該土地につき官有地区分が行われたことを立証すべきことになるのが原則である。
ところが、地租改正事業は、常に政府の号令一下全国各地一斉に全く同一の方法で同じように進行したものではなく、府県によって具体的実施方法には差異が見られるし、進捗状況も一定ではなかったこともあって、官民有区分から漏れた脱落地、官民有区分未了のまま推移した未定地が存在したが、右脱落地・未定地は、下戻の申請なく明治三三年六月三〇日を経過した時点で官有地区分が擬制され、官有となったものである。
以上のことは、当該土地につき民有の確証があった場合についても、これがなかった場合についても、同様に当てはまるものである。すなわち、国有土地森林原野下戻法(明治三二年四月一八日法律第九九号、以下「下戻法」という。)一条一項は、「地租改正又ハ社寺上地処分ニ依リ官有ニ編入セラレ現ニ国有ニ属スル土地森林原野若ハ立木竹ハ其ノ処分ノ当時之ニ付キ所有又ハ分収ノ事実アリタル者ハ此ノ法律ニ依リ明治三十三年六月三十日迄ニ主務大臣ニ下戻ノ申請ヲ為スコトヲ得」と規定し、同条二項は、「前項ノ期限ヲ経過シタルモノ……ハ下戻ノ申請ヲ為スコトヲ得ス」と規定し、さらに同条三項は、「府県設置以後上地処分ヲ受ケタル土地及地租改正処分既済地方ニ於ケル未定地脱落地ニ付テハ此法律ノ規定ヲ準用ス」と規定しているものである。これらの規定の文言を素直に解釈するならば、下戻法が、地租改正事業の総決算として、官民有区分から漏れ又は未了の脱落地・未定地を含めて、一切の紛争の余地を根絶しようとしたものであることは明らかであり、脱落地・未定地は下戻法の規定によりすべて官有となったものというべきである。
仮に一歩譲って、下戻法の規定によっても脱落地・未定地が当然には官有とならないとしても、「無主ノ不動産ハ国庫ノ所有ニ属ス」との民法二三九条二項の規定により、脱落地・未定地は官有となったものである。当該土地につき民有地区分が行われたことの立証も、官有地区分が行われたことの立証もない場合、当該土地は、民有地区分による法的効果も官有地区分による法的効果も生じない土地、すなわち脱落地・未定地として取り扱わざるを得ない。そして、右に述べたとおり、脱落地・未定地は官有であるから、国はわざわざ当該土地につき官有地区分が行われたことを立証する必要はなく、民有主張者が民有地区分が行われたことを立証しない限り、当該土地は官有となるものである。
したがって、原告は、本件各土地が地租改正処分既済地域内の土地であること(下戻法一条一項ないし三項)及び原告が国であることを主張立証すれば足りるが、仮に本件各土地につき官有地区分が行われたことを主張立証する必要があるとするも、右処分の存在すること後に述べるとおりである。
(二) 京都府における地租改正事業の経過と近代的所有権の形成過程(池の官民有区分に係る事項を中心にして)
(1) 壬申地券の交付
京都府では、明治五年九月地券掛・地券取調掛を置き、同年一〇月地券心得書を刊布して、壬申地券交付に着手し、郡村地券については翌六年六月に交付を完了し、大部分の山林についても交付を完了した。
(2) 地租改正
(ア) 前述のとおり、明治六年七月二八日、いわゆる地租改正法令が発布され、当初大蔵省租税寮改正局がその準備作業に入った。しかし、大蔵省と翌明治七年に設置された内務省との間で所管等について意見が対立し、政府レベルでも事業は進捗せず、明治八年三月二四日太政官達第三八号をもって、内務大蔵両省間に地租改正事務局が設置されたことにより、政府として事業を推進する態勢が整った。そこで、同事務局は、同年七月八日、同事務局議定「地所処分仮規則」及び「地租改正条例細目」を発して改租事業の積極的実施を図ることとした。右大蔵省租税寮改正局及び地租改正事務局の具体的活動は、第一に、各府県からの種々の問題に関する伺に対して指令し、必要な達を下令し、地方官の事業執行に協議しこれに指導を与えることであり、第二に、府県における改租事業の実施につき、地方官たちを直接に指揮、指導することである。何分にも新規の事業であるから、法公布の当初、地方と周到の打合を要し、また改租の進行に当りこれを督励した。地租改正事務局設置後、とくに改租竣功期限が明治九年と指示されてからは、局員はたえず府県に出張し、地方改租掛官と提携しかつ指導して促進を計った。
改正事業の具体的な内容は、大別して土地の整理及び丈量と地価調査とに分けられる。もとより改租事業の目的からして後者に主眼があったのであるが、前者もその前提として不可欠の作業であった。前者の土地の整理及び丈量は、さらに村字界及び飛地の整理、土地所有の確定及び土地の地押丈量(「地押」とは「土地ノ重複若クハ脱落ナキヲ要スル為メ当初ニ之ヲ施行スル」手続であり、「丈量」とは、各土地各筆の測量である。)等からなっていた。
(イ)(a) ところで、前記のとおり中央政府では改租事業を主導する態勢が整うまで地租改正法令発布後二年余を要していたのであるが、そもそも改租事業の直接の実施機関は府県であり、地方官が直接担当者であった(前述のとおり大蔵省租税寮改正局及び地租改正事務局は、統一的な事業実施のための立法的活動や地方官に対する指導・監督的活動を行っていた。)。したがって、中央政府の態勢が確立する以前から府県レベルでは改租事業に着手していたところもあり、重要な中央法令も発布されている。
(b) 京都府知事は、明治七年三月、前記地租改正法令を、「地租改正ニ付告論」を付して公布し、翌明治八年八月、京都府番外第二三号達「地租改正ニ付人民心得書」(以下「地租改正人民心得書」という。)の公布により実際の事業に着手した。
事業は、まず郡村耕宅地の部分から始められたが、その規範となった地租改正人民心得書の要旨及びこれに基づく事業の成果は、次のとおり整理される。
まず、一村内のすべての土地に漏れなく一筆ごとに地番を付ける。地番は、田畑宅地、林、原野等々すべての地目の土地に対し、官有地、民有地、官民未定地を問わず一字ごとに地順を追って付ける。ついで、地番を付した一筆の地ごとに丈量し、その結果を、所有者名とともに記帳し、併せて「字限地絵図」及び「一村字訳絵図」を製し、官の検査を受ける。
その後、まず耕宅地につき、一筆ごとに地位等級を決め、収穫高、小作料高を調べ、それらに基づき地価を算出し、その結果を「地所並収穫物地代価書上帳」にまとめ、官の検査を経て、「字限地絵図」・「一村字訳絵図」とともに府庁へ提出する。
こうして、一村内すべての土地のうち耕宅地の所有権が、「地所並収穫物地代価書上帳」及び「字限地絵図」・「一村字訳絵図」によって、所有者・位置・境界・面積が表示され、確定される。
ところで、地租改正人民心得書の本文によれば、右のとおり一村内のすべての土地を調べ上げる建前となっているが、その別紙である調査結果を集約する「持主毎可書出雛形地所並収穫物地代価書上帳」及び「村中持之分可書出雛形地所並収穫物地代価書上帳」によると、道、堤、井路、溝等は、これらに記載することを要求しておらず、また、従前無税地及び今後無税となる予定地種の大部分は記載しないこととなっている。もっとも、右地租改正人民心得書公布の直後である明治八年八月番外二八号をもって、右種類の土地についても右各書上帳に記載するよう指示している。しかし、そこでも道、堤、井路、溝については地番を付さない扱いをすることとしており、したがって、これらの土地については、字限地絵図と照合しても、厳密な位置・範囲の特定はできず、官民有の区別も不明となる場合が少なくない。
(c) 山林、原野については、改租事業に種々の困難が予想されたことから、政府の方針としても(山林原野を)「耕宅地ト一時ニ整了ヲ要スルトキハ容易ニ結果ヲ見ル能ハス故ニ先耕宅地ヨリ整了シ尋テ山野ニ著手」することとされた。地租改正事務局は、明治八年一二月二七日達乙第一四号をもって、山林原野等の改租に着手するよう指示し、明治九年三月一〇日には、山林原野の調査方法及び改租の手順を示した「山林原野調査法細目ノ事」を布達した。
これを受けて、京都府においても、明治一〇年二月一九日、番外六号及び七号をもって山林改正の着手を指示するとともに、右「山林原野調査法細目ノ事」におおむね準拠して調査方法等を示した(以下、右番外六号の別紙一条ないし一六条を「山林改租人民心得書」という。)。
ところで、先行した前記郡村耕宅地改租の際の地租改正人民心得書の条項を見ると、山林原野に対しても改租作業がなされたかのような誤解を招くおそれもあるが、地租改正人民心得書中にある山林原野の改租とは、一字内に耕宅地のほか山林原野等を含む場合、これも耕宅地改租に付随して一字限りで改租を行うことを意味するのであって、一字内に耕宅地が全く存在せず、すべて山林原野等からなっている場合にはこれを改租の対象から除外したものである。しかも、実際は、右番外六号の起案文書である伺文にも「耕宅地改租調整相成候就而者、山林調査ニ着手致度、」とあるとおり、一字内に耕宅地と山林原野等がある場合、耕宅地改租の際には、山林、原野等について地価の決定にまで至っていなかった例もあると考えられる。
山林改租人民心得書は、測量の方法について、「山林ハ耕地ト同視スヘカラスト雖モ、大略耕地丈量ノ手続ニ拠り、山岳ハ斜面側面ニテ縦横ノ間数ヲ量リ、反別ヲ算出スヘキモノトス」(一条、なお「側面」とあるのは、前記「山林原野調査法細目ノ事」第一条第二節に「山岳ハ斜面測量ニテ縦横ノ間数ヲ量リ」とあることからして、「測量」の誤りと解される。)として原則として耕地の測量手続によるものとするが、一方で、「一筆限リ即チ持主壱人別限リ、又ハ野山等ノ内、一ハ一村ノ稼場、一ハ入会稼場、即チ二筆ノ区別アルモノハ、其一筆限リ丈量シ、一字限リノ区別ノミナルモノハ、其字限リ適宜丈量スルモノトス」(二条)、「深山幽谷或ハ柴草山等ノ曠漠タル地ニシテ、容易ニ丈量ナリ難キ地ハ、差向四至ノ境界ヲ詳記シ、周囲ノ里程ヲ量リ、凡 反別ヲ取調フヘキモノトス」(三条)としている。また、山林改租人民心得書五条は、「山地ヲ丈量スルハ、先ニ各村山岳ノ見取絵図ヲ製シ置、一筆限リ境界ヲ立、字番号ヲ附シ、其一筆限丈量セシ目標ノ建タル所ヲ図面上ヘ朱点ヲ入レ、以テ量得タル間数ヲ記載シ、一筆限帳ニ添ヘテ差出スヘシ」として「見取絵図」の作製、提出を指示し、また、六条では、「毎村山岳丈量畢ラハ、別紙雛形ニ倣ヒ、現地明細帳ヲ製シ、地主連印、相違ナキ旨ヲ証シ差出ヘシ」として調査結果を集約した「山林現地一筆限明細書上帳」の作製、提出を定めており、これによって、山林原野に対する所有権が表示されることとなる。なお、地番の付け方及び右明細帳への記載方法に関し、山林改租人民心得書は、「山林番号ハ、一ト字限リ一筆毎ニ付スヘシ□但、田畑・宅地等ノ一ト字中江寵リタル地ハ、其田畑・宅地ノ順番ヲ逐ヒ設クヘキモノトス」(一一条)、「官民有地区別決定未然、明細帳ヘハ持主ノ二字ハ省キ只其地称ト反別ト、入会或ハ一村持場ナレハ、其村名ヲ揚ケ、別冊ニシテ可差出モノトス□但、番号ハ、官民有地ヲ問ハス、地所ノ順番ニ付スヘシ」(一二条)、「山岳内ニ孕タル民有の社寺院、一区画ヲナシタル境内及ヒ墓地等、最前耕宅地改正ノ際除キ置タル分ハ悉ク丈量シ、地所ノ順番ヲ付シ、一筆限リ其番号ノ順序ニ記載スルモノトス但、官山林並ニ社寺境外上地ノ山林ハ、実地丈量ニ不及、只地所ノ順番並字而已ヲ記シ、明細帳外書ニ記スヘシ」(一五条)、「一区画ヲナサザル瑣歩ノ堂宇等ハ、本地一縄ノ内ニ籠メ、腹書ニ歩数ト名称トヲ記載スルモノトス」(一六条)との指示を与えている。
京都府下では、この山林改租人民心得書に基づいて山林改租が進められたが、地租改正事務局は、明治一一年二月一八日、山林改租未済の府県に対し、「各地事情ヲ斟酌シ、可成丈繁冗ヲ去リ手数ヲ減シ、簡易ノ手続ヲ以テ調査可致」との達を発し、精密な調査より事業の早期完成を優先させる方針を打ち出している。
(d) 以上の経緯で京都府における地租改正事業は、明治一三年五月にすべて完了した。
(3) 税外地調査及び地籍編纂
(ア) 前述のとおり、内務省は、明治七年一二月二八日内務省達乙第八四号をもって、翌明治八年三月より地籍編纂調査に着手する旨通達しているが、京都府では、着手が遅れ、明治一六年又は一七年から地籍編纂事業にかかっている。
もっとも、その前の、明治一三年及び明治一六年に地籍編纂事業の一環とも考えられる税外地調査が行われた。明治一三年の税外地調査は、明治九年京都府に合併された旧豊岡県の丹後全国及び丹波国天田郡においてなされたものであり、明治一六年の税外地調査の対象地域については直接これを明らかにする資料が発見されていない。
(イ) 右税外地調査を別として、京都府における地籍編纂事業は、明治一六年より之に着手し、京都市、葛野、愛宕、乙訓の一市三郡は全部成功し、宇治郡は山科村、醍醐村の二ヶ村のみ成功し、其の他の郡村は国庫より経費の支出を廃せられ、半途にて中止した。ただし、実際に事業に着手したのは明治一七年であろうかと思料される。
すなわち、京都府は、明治一七年三月、地籍編纂協議のため主任官員を派出する旨を郡区役所、戸長役場に通達し、地籍編纂の順序、方法を示した「地籍編製心得書」(別紙「雛形」付き)を内達した。
右通達の起案文書及び右「地籍編製心得書」の特徴点は、次のとおりである。すなわち、できるだけ簡易の方法をとり、府庁備え付けの帳簿・台帳・地図類を基に、地理課で地籍帳簿を作って実地と照合のうえ、町村に下付、確認を経て、地籍本書を提出せしめる。帳簿作製に当たっては、官有地第一・二・四種については府庁調査済の面積を、第三種についても府庁調査済のものはその面積を、その他のものは税外地調査の面積を、それぞれ移記記載する。民有地については地券台帳に依り、第一種については改租時を基にした面積を、第二種については税外地調査の面積をそれぞれ移記する。道路・堤塘等面積未定のものは新たに方積を求める。字番号・一筆番号は地租改正の際付記したものを用い、一筆番号無番の土地については必要に応じて順次付記するが、官有地で地番の無いものは隣地の枝番でもって起番する。地図は地租改正の際のものを利用する等々である。
ところが、実際の調査は更に簡略化されることとなる。明治一七年一二月二四日発せられた「地籍編纂主任官心得書」、及びこれに関する起案文書によると、明治一八年一月から山城各郡で地籍編纂に着手する予定であったこと、官有地については村毎に一筆限帳を調整するが、民有地については地租改正の際の一筆限帳があるので新たに実地調査をして村ごとの一筆限帳を作成することはしないこと、村ごとの官有地一筆限帳を調整の上官有地民有地とも地種に類別して町村ごとの地籍を調すること等となっている。
(ウ) かくして、地籍編纂事業の結果、京都府下においては、京都市及び葛野、愛宕及び乙訓の三郡並びに宇治郡の山科村及び醍醐村について地籍(前記「地籍編纂主任官心得書」は、町村地籍を「一筆限帳」又は「一筆限帳簿」と呼称している。)及び改租図に基づく地籍図が調製された。
(4) 地押調査
(ア) 京都府では、明治一八年から、一部地域では前記地籍編纂作業と並行しながら、地押調査が開始された。
すなわち、京都府では、明治一七年三月一九日、地租条例を公布し、明治一七年一〇月一五日、甲第一〇八号をもって地租に関する願及び届け等の手続についての布達を発した。
次いで、明治一八年六月二三日、乙第一〇〇号をもって、地押調査のための「実地取調順序」を布達して調査に着手し、明治二一年一〇月ころまでに完了した。
なお、この間、大蔵大臣は、明治二〇年六月二〇日、内訓第三八九〇号「町村図面調整方ノ事」並びに同別冊「町村地図調整式及更正手続」及び「町村製図略法」をもって、地図調製の具体的手続及び方法を示した。
(イ) 京都府は、前記明治二二年三月二二日法律第一三号及び勅令第三九号(土地台帳規則)に応じ、明治二二年四月から従来の地券台帳に替えて土地台帳を用いることとした。
(三) 池についての官民有区分認定基準
(1) 官民有区分認定の一般的基準
(ア) 地租改正事業の過程で、個々の土地の官民有区分が不可欠の前提となることは先に述べたとおりである。ところが、壬申地券発行事業の段階から幾つかの中央法令の中で官民有区分についての一般的基準を定立した条項を含むものがある。
(イ) 明治六年三月二五日太政官布告第一一四号「地券発行ニ付地所ノ名称区別共更正」は、地所の名称を、皇宮地、神地、官庁地、官有地、公有地、私有地及び除税地に区分した。
明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「地所名称区別改定」は、右地所名称区別を改定し、すべての土地を官有地と民有地に大別した上、官有地を第一種ないし第四種に、民有地を第一種ないし第三種に小分し、各々につき地券発布の有無及び地租、区入費賦課の有無を規定した。右「地所名称区別改定」によって、本件に関係ある池及び山林に関する区分を見てみると、官有地第三種として、「一山岳丘陵林藪原野河海湖沼池沢溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地ニアラサルモノ」が挙げられ、これについては「地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス」とされ、民有地第一種として「人民各自所有ノ確証アル耕宅地山林等ヲ云」とされ、これについては「地券ヲ発シ地租ヲ課シ区入費ヲ賦スルヲ法トス」とされ、また、民有地第二種として、「人民数人或ハ一村或ハ数村所有ノ確証アル学校病院郷倉牧場秣場社寺等官有地ニアラサル土地ヲ云」とされ、これらについては地券を発し地租を課することとされている(もっとも、右太政官布告第一二〇号の「民有地第二種」の項には、右地券、地租に関する規定を欠いているが、これは記載もれである。また、右規定上、民有地第二種の対象として「山林」を掲げていないが、適用上当然これを含むものである。)。なお、池について明文の定めはなかったが、民有地第三種として「官有ニアラサル墳墓等」が挙げられており、「地券ヲ発シテ地租区入費ヲ賦セサル」土地とされていたところ、明治八年一〇月の改正で民有地第三種に「民有ノ用悪水路溜池敷堤敷及井溝敷地」が追加された。
(ウ) 右「地所名称区別改定」と同日に発せられた太政官達第一四三号「官有地民有地取調雛形」、及び前記地租改正事務局設置後の明治八年六月二二日同事務局達乙第三号「山林原野池溝等官有民有区別更定調方」により「民有の確証」の認定についての指針が示されるが、同年七月八日の同事務局議定「地所処分仮規則」は、官民有区分についての包括的細則的基準を示している。
右「地所処分仮規則」は、「第三章 山林原野秣場処分ノ事」において、「山林原野秣場等簿冊ニ明記セルモノハ勿論従来甲乙村入会等ノ証跡アルモノハ民有地トシ其証左ナキモノハ官有地第三種ト定メ内務省ノ処分ニ帰スヘキ事、但証跡ハ本局乙第三号達ノ通可相心得事」(第一条)、「山林ノ内ヘ社庵等ヲ設ケ一区画ヲナシタルモノハ其名称ニヨツテ別筆ニ取調其民有地ノ分ハ隣接ニ準シ賦税ノ積心得ヘシ丈鎖々タルモノハ本地一枚ニ取調名称ヲ区別スルニ及ハサル事」(第二条)と定め、「第五章 養水溜池井手敷処分ノ事」第一条は、「耕地涵養ニ設クル溜池溝渠ハ其民有ノ確証アルモノハ民有地第三種ニ編入シ従前ノ地税ハ除スヘシ民有ノ証ナキモノハ官有地第三種ト定メ内務省ノ処分ニ帰スヘキ事」と定める。
なお、地租改正事務局は、同年一二月二四日、達乙第一一号をもって、前記同年達乙第三号の趣旨につき、「乙第三号達之趣ハ、従来之成跡上ニ於テ所有スヘキ道理アルモノヲ民有ト可定トノ儀ニテ、啻ニ新(薪)秣刈伐、或者従前秣永・山永・下草銭・冥加永等納来候習慣アルモノヲ、既シテ民有ノ証トハ難見認ニ付、如斯ノ類ハ原因慣行等簿ト取調、経伺ノ上処分可致儀ト可相心得事」との指示を発している。その後、明治九年一月二九日に布達された地租改正事務局議定「山林原野等官民所有区分処分派出官心得書」は、右達乙第一一号の趣旨をふえんして包括的整理をした規定である。
(エ) 官民有区分の認定に関する中央法令の変遷についてはおおむね以上のとおりであり、「民有ノ確証」ある土地は民有とし、そうでない土地は官有とする一般的基準が定められていたものである。
(2) 池の官民有区分の具体的認定基準
(ア) 前述した官民有区分に関する中央法令のうち、池の区分について一般的原則を示しているのは明治八年七月八日地租改正事務局議定「地所処分仮規則」第五章第一条であり、これによれば、池が民有と認定区分されるには「民有ノ確証」がある場合に限られる。
ところで明治八年六月二二日地租改正事務局達乙第三号、同年一二月二四日同事務局達乙第一一号及び明治九年一月二九日同事務局議定「山林原野等官民所有区分処分派出官心得書」の中には、形式上池の官民有区分に適用されるようなものもあるが、その内容を詳細に検討していけば、専ら旧公有地の内の山野の類を念頭に置いているというべきであり、池の官民有区分の具体的認定基準については、府県からの伺に対する中央政府の指令を検討する必要があり、これにより明治政府及び府県は山林原野等とは必ずしも一致しない独自の具体的基準をもって池の官民有区分を行っていたことが明らかとなる。
(イ) そして、府県からの伺に対する中央政府の各指令によれば、池についての官民有区分の認定基準、換言すれば前記地所処分仮規則第五章第一条にいう「民有ノ確証」の存否の判断基準は、以下のとおりである。すなわち、
(a) 当該池が、従来正租(本年貢の意であり、小物成及び付加税を含まない。)を負担していた高請地であれば民有と認める。したがって、正租を負担していなかった無税、除税の池は官有地とするのが大原則である。ただし、次のような例外を認める。正租を負担していなかった池でも、「名請・買得の証」(売買、譲渡の事実を証する古簿、文書)があって「民有の確証」があり、かつ、現在なおその成跡(所有者が自由に利用している慣行を証明できること)を有し、地主が希望する場合は民有地とすることを認める。
(b) 従来高請地であった田畑等を潰して村方で池を築造し、その池に賦課される正租を村方等で弁納してきたものは民有と認める。
(c) 従来無税地の天然の池沼等で、特別の労費を投じていないが、それを利用する慣行の証明のある場合は、官有地とし、水掛り利用は従来の慣行に任せる。
右に述べた池の官民有区分認定基準は、京都府下においても現にそのまま適用されている。
(四) 本件池に対する官有区分の存在
(1) 池の官民有区分認定基準による官有区分
旧中野村字三尾山には、本件池のほか門徳池及び弁慶足型池が存在するところ、右三尾山の山林は、検地によって反別、石高の定まった高請地ではなく、正租の課せられない高外地として小物成(正租でない雑税)が賦課されており、右の三つの池は高請地を潰して池にしたものではないから、結局、右の三つの池は、いずれも正租を賦課されない高外地であった。
そうすると、本件池は、いずれも前記(三)(2)(イ)池の官民有区分の具体的認定基準に照らすと、本来の原則どおり官有に区分されるべき地であったのであり、したがって、個別的に右基準の適用が排除されて特別な扱いがなされた等の特段の事情がない限り官有に区分されたものと推認されるところ、右特段の事情を認めるべき証拠はない。
(2) 字三尾山の字限図について
土地台帳附属地図としてある時期使用されていた字限図(<証拠略>以下、「本件字限図」という。)には、本件池、門徳池及び弁慶足形池の部分にいずれも「官有溜池」と明記されている。
本件字限図は、昭和五九年七月、京都地方法務局下京出張所に保管されているのを発見されたもので、土地台帳附属地図の保管及び移管の歴史からして昭和二五年の税務署から登記所(法務局)への台帳事務移管の際、当時既に土地台帳附属地図として使用されていなかったが、土地台帳関連資料として下京税務署から京都地方法務局下京出張所に引き継がれ、以後同出張所において保管されていたものと解され、その作成時期は地押調査事業が終了し、これに基づく土地台帳制度が機能し始めていた明治二二年四月以降明治二七年までの間であるが、更に限定すれば、明治二六、七年の可能性が最も高いところ、本件字限図には明治二六年以降明治三二年までの土地の異動の経過が土地台帳の記載どおりに誤りなく記載されているが、明治四〇年の分合筆については記載がなく、他方、旧公図(<証拠略>、以下「本件旧公図」という。)は、明治三一年(又は明治二九年)に調製されたものと解されるが、明治三二年の分筆の記載がなく、明治四〇年の分合筆の記載がされていることからすると、本件字限図は、明治三二年の後明治四〇年以前のある時点まで、土地台帳附属地図として現に公の用に供され、それ以降旧公図に引き継がれたことを明確に示しているものといえる。
したがって、本件字限図に記載された「官有溜池」との記載は、本件池の官有区分を明確に示すものであり、右官有区分は地押調査までの一連の地租改正事業又はその後の個別的官民有区分の結果なされたものといえる。
(3) 旧公図上の表示について
本件池、門徳池及び弁慶足形池が記載され、現在京都地方法務局嵯峨出張所において閲覧に供されている公図は、いわゆるマイラー図であるが、そのマイラー化前の元図で同出張所に保管されている最も古い地図である前記旧公図では、本件池、門徳池及び弁慶足形池の部分に「溜池」と表示され、青色で色分けされて地番の記載はない。
一般に公図上青色で色分けされた土地は官有地と解されており、また、公図上無地番となっている土地は、特段の事情のない限り官有に区分されたものと認められるから、本件旧公図上、本件池が青色で着色され、かつ無地番となっていることは、本件池が官有に区分されたことを示すものである。
(4) 文徳天皇田邑陵墓地疆界簿及び陵墓地疆界図について
昭和五年に帝室林野局が作製した「山城國葛野郡太秦村大字中野文徳天皇田邑陵陵墓地疆界簿陵墓地疆界簿」(以下疆界簿と疆界図を合せて「本件文徳天皇陵墓地境界簿等」という。)には、門徳池について、「大字名 中野、字名 三尾山、地番 無地番、地目 官有溜池、現況 池、管理者又は所有者氏名 京都府知事」と明記され、地図上も門徳池の部分に「官有溜池」と記載されており末尾には、隣接地管理者として「京都府知事佐上信一」の署名押印がある。
旧中野村字三尾山の本件池、門徳池及び弁慶足形池は、官民有区分に当たって別異の取扱いを受ける特段の理由がなく、現に同じ取扱いを受けたものであるから、門徳池が官有に区分編入されたことを証する本件文徳天皇陵墓地録等は、本件池が官有に区分編入されたことを示すものというべきである。
(5) 「文徳天皇御陵根敷概測圖」について
明治四三年陵墓録の中の「押第一一号圖面進達書」の別紙である明治四一年四月二〇日陵墓守長川井菊太郎調査調製に係る「山城國葛野郡太秦村大字中野小字三尾山文徳天皇御陵根敷概測圖」(以下「文徳天皇御陵根敷概測図」という。)には、門徳池の部分に「田養水池」と記載され、凡例には、同部分につき「官有中野区田養水池」と明記されている。
右事実は、明治四一年四月二〇日以前に、門徳池が官有に区分編入されたことを示すものであり、前記(4)同様、本件池も官有に区分編入されたことの有力な証左となる。
(6) 農業用溜池調書について
京都市経済局山林耕地課(当時)が、昭和五一年七月に調査作成した農業用溜池調書(以下「農業用溜池調書」という。)には、本件池、門徳池及び弁慶足形池について、「所有者国」と記載されている。
右農業用溜池調書によって認められる昭和五一年当時、一般に本件池が国有地であると認識されていた事実は、本件池がかつて官有に区分編入され、そのまま現在に至っていることを示す有力な事情というべきである。
(7) 土地台帳について
本件池について地券が発せられ、地券台帳に登載されたことを示す資料は全くないから、このような事実はなかったものと認められ、以上によれば、本件池は土地台帳制度移行前の狭義の地租改正、地籍編纂及び地押調査(あるいは税外地調査)の各事業の際、民有に区分されておらず、かつ、右各事業以外の個別的機会に民有区分がなされていないものと認められる。
また、土地台帳にも本件池が登載されておらず、このことは明治二二年の土地台帳制度移行後においても本件池が民有に区分された事実がなかったことを示すものといえる。
したがって、本件池は、単独所有、共有等その所有形態を問わず民有に区分編入された事実がないことは明白であり、このことは本件池が官有に区分編入されたことを直接示す事情となる。
(8) 部落有財産台帳について
「明治二六年度町村財産調山城八郡」のうち「葛野郡太秦村内部落有財産」の部(以下「明治二六年部落有財産台帳」という。)、「明治二七年山城八郡町村有財産取調書」の「葛野郡太秦村内部落有財産」の部(以下「明治二七年部落有財産台帳」という。)、「明治四十三年以降部落有財産統一関係綴」のうち「太秦村各区有財産調書」(以下「明治四三年部落有財産台帳」という。)には、一度たりとも本件池(及び門徳池、弁慶足形池)が登載されたことはない。
ところで、明治二六年、二七年及び四三年各部落有財産台帳は、部落有財産(大字中、村中)である山林及び溜池の所有権の移転及び官有地編入等に伴う地積の増減の変動を正確に記載していると認められるから、部落有財産を登載した帳簿としての信頼性は高い。
したがって、右各部落有財産台帳に記載がないことは、本件池(及び門徳池、弁慶足形池)が、部落有(村中持)と認定区分された事実が存在しないことを意味し、結局、本件池が官有に区分されたことを示している。
(9) 昭和一三年ころの道路用地寄附について
昭和一三年ころの道路改修工事によって本件池の南側部分が埋め立てられたが、その際右部分について寄附又は用地買収の手続が採られず、その後も現在に至るまで右部分につき所有権を主張する者がいなかった。
右改修工事が本件池南側のみでなく、その前後の道路部分でも行われ、その際、道路管理者である京都市は、国のために近隣の土地所有者から、新道路の敷地となるべき土地の寄附(一部は用地買収)を受けていることと対比して考えると、右事実は、取りも直さず本件池がかつて官有に区分され、官有の溜池をして取り扱われてきたことを示しているといえる。
(10) 地元住民の意識等について
本件池は、地元住民から国有地として認識されてきたものであり、被告大山以外に本件池が自己の所有であることを主張する者は存在せず、しかも、本件池周辺の山林を被告大山に譲渡した訴外井上卓之及び同井上道子ですら本件池が国有地であると認識しているという事実は、本件池が原告の所有に属することを示す重要な事情である。
(11) 官有区分の時期
以上(1)から(10)の事実からすれば、本件池が官有に区分されて官有地に編入され、現在に至っていることは全く疑う余地がないというべきであり、官有に区分されたのは明治一〇年ころから明治二六、七年までの間であり、更に限定すれば、旧中野村において既に地押調査事業が着手された後である明治一八年一二月ころから明治二六、七年までの間と考えるのが相当であり、その間でも、旧中野村においても地押調査事業が終了したと考えられる明治二一年一〇月以前の可能性が高いといえる。
したがって、本件池に対する官民有区分によって官有とされた以上、その後、下戻法の適用等によって権利変動があったことについて主張、立証がない場合には、右土地の所有権は、右官民有区分によって創設されて以来、国に帰属し今日に及んでいるというべきである。
六 まとめ
よって、原告は、本件各土地が原告の所有であることの確認を求めるとともに、被告らに対し、右所有権に基づき、本件各土地について、請求の趣旨記載の明渡し、移転・抹消登記手続をすることを求める。
(請求原因に対する被告大山及び同商銀(以下、「被告大山ら」という。)の認否)
一 請求原因一の事実(ただし、本件各土地が本件池の一部であることは争う。)、同二の事実及び同三のうち被告商銀が原告主張の登記ないし仮登記を有していることは認める。
二1 同五1のうち、(一)の事実は認め、(二)(1)(2)中、大政奉還・版籍奉還・社寺領上知令及びそれに基づく上知の各効果(明治政府・国の所有権取得)については争い、その余の事実は認める。
上知は、近代法上の私的所有権の確定手続ではない。
2 同五2について
(一) (一)(1)ないし(7)(ただし、(7)のうち立証責任に関する主張は争う。)、(二)(1)、(2)(ア)、(イ)(a)ないし(d)、(3)(ア)ないし(ウ)、(4)(ア)(イ)の各事実は認める。
(二) (三)(1)(ア)ないし(エ)の各事実は認め、同(2)(ア)(イ)は争う。
(三)(1) (四)(1)は争う。
取扱いの方針と官有地編入は全く別物であって、取扱いの方針だけで官有地編入がされたことにはならない。
(2) (四)(2)のうち、本件字限図に、本件池、門徳池及び弁慶足形池の部分にいずれも「官有溜池」と記されていることは認め、その余は争う。
まず、本件字限図はそもそも出所が非常に疑わしい。昭和五九年七月京都地方法務局下京出張所の書庫から偶然に発見されたものというが、誠に奇々怪々である。昭和二五年以降の土地台帳や不動産登記に関する法令や規定から考えて、本件池の管轄外の下京出張所に、かような重要な地図が、誰にも気づかれずに放置されているなどということはありえないところである(しかも下京出張所は途中で建物を新築していると思われる。)。おそらく、誰かが、ひそかにこの地図を下京出張所に持ち込んだとしか考えられない。
また、本件字限図は記載形式からしていかがわしい。すなわち、京都府では、地租改正・地押調査の際作成される地図について、「地租改正人民心得書」「町村地図調整式及更正手続」を布令し、地図の様式を定めているところ、本件字限図は右いずれの様式にも準拠しておらず、位置付けが不可能なものである。
さらに、本件字限図は記載内容に誤りがある。すなわち、門徳池が、実際には文徳天皇陵前道路の西側だけでなく東側にも広がって存在しているのに、本件字限図では東側部分が表示されておらず、また「一ノ四八山林」「一ノ四九山林」「一ノ五十山林」についてその所在位置が完全に誤っている。
以上のように、本件字限図の出所、記載形式、記載内容からして、その信用性は著しく低く、本件各土地の官有区分の根拠たりうるものではない。
(3) (四)(3)のうち、マイラー図の元図である本件旧公図に、本件池、門徳池及び弁慶足形池が「溜池」と表示され、青色で色分けされて無地番となっていることは認め、その余は争う。
一般に民有溜池であっても青色で色分けされていることも多く、本件土地が青色で色分けされているからといって官有溜池であることを示すものではない。
また、地番が付せられない土地であるからといって必ずしもそれが官有地であることを示すものではない。
(4) (四)(4)のうち、本件文徳天皇陵墓地境界簿等に原告主張の記載があることは認め、その余は争う。
境界簿等作成について、当時の隣接地立会に関する手続は事務的・形式的で、隣接地の記載も単に当時の帝室林野局官吏の個人的判断を記載したものにすぎず、門徳池についても、同池が水下農民らの灌漑に利用されていることから、「官有」と即断・誤認されて記載されたものにすぎない。
(5) (四)(5)のうち、文徳天皇御陵根敷概測図に、門徳池が「田養水池」「官有中野区田用水池」と記載されていることは認め、その余は争う。
(6) (四)(6)のうち、農業用溜池調書に、本件池、門徳池及び弁慶足形池が「所有者国」と記載されていることは認め、その余は争う。
右溜池調書の記載は、当時の山林耕地課職員の個人的な判断を記載したものにすぎず、右三つの池が国有であることを示すものではない。右職員らは、右三つの池が水下農民らの灌漑に利用されていることから、これを「国有」と即断・誤認したものにすぎない。
(7) (四)(7)のうち、本件池が土地台帳に記載されなかったことは認め、その余は争う。
土地台帳に記載されなかったことが、官民有区分において民有区分されず官有区分されたことを示すとの論法は、三田用水事件において、第一審判決(東京地裁昭和三六年一〇月二四日判決、下級裁判所民事裁判例集第一二巻一〇号一〇七頁参照)、控訴審判決(東京高裁昭和四二年七月五日判決、訟務月報第一三巻九号三四頁参照)、上告審判決(最一小昭和四四年一二月一八日判決、訟務月報第一五巻一二号一三頁参照)を通じて否定された論法である。
また、後記(被告らの反論)一のとおり、本件を含む三つの池が三尾山の山林の一部として一括して民有地第二種に区分されたとすれば、三つの池が土地台帳上に直接明示的に表示されることはない。また、独立に付番されることもない。このような処理の妥当性は、本件池の形成過程の特性のみならず、三尾山の山林全体が一括して「村中地」とされたことからも首肯されえよう。
(8) (四)(8)のうち、明治二六年、二七年及び四三年の各部落有財産台帳に、本件池(及び門徳池、弁慶足形池)が登載されたことがないことは認め、その余は争う。
各部落有財産台帳に記載されなかったことは、官有溜池として取り扱われていたことを示すものではない。両者は分類の視点を異にする。
(9) (四)(9)は争う。
(10) (四)(10)は争う。
井上貞之及び井上道子には、本件池の所有意思があり、請求原因五2(四)(9)の道路改修の際、新道路設置により生じた三角土地(本件池の一部であるが、本件土地には入っていない。)について、井上貞之は現在も所有権を主張している。
(11) (四)(11)は争う。
(四) (五)は争う。
前記三田用水事件の第一審、控訴審、上告審の各判決の他、道頓堀川事件仮処分判決(大阪地裁昭和四一年二月一一日判決、判例時報四四二号二五頁参照)、同本案判決(大阪地裁昭和五一年一〇月一九日判決、判例時報八二九号一三頁参照)等において、近代的土地所有権は、近代的土地所有権制度が確立した段階において、当該土地について、所持、支配進退、管理支配する等最も強い支配権を有していた者に帰属する旨の判示がなされ、右判示によれば、近代的土地所有権制度の確立段階でなされた官民有区分は、それ自体で所有権の帰属を根拠づけるものではなく、官民有区分に至る経緯や土地に対する管理支配関係が根拠づけに必要となるのであるから、官民有区分によって所有権を取得したと主張する者は、官民有区分の存在だけでなく、それに至る経緯や土地に対する管理支配関係を具体的に主張・立証する必要があるところ、本件では、原告が官有区分の存在を主張しながら、その特定をしないばかりか、官有区分に至る経緯や土地に対する管理支配関係を全く主張・立証しないのであるから、原告の請求は全く失当である。
(請求原因に対する被告朝信の認否)
一 請求原因一の事実(ただし、本件各土地が本件池の一部であることは争う。)及び三のうち、被告朝信が原告主張の登記ないし仮登記を有していることは認める。
二 同五の各事実については、被告大山らの認否のとおり。
(請求原因に対する被告新京都信販の認否)
一 請求原因一の事実(ただし、本件各土地が本件池の一部であることは争う。)及び三のうち、被告新京都信販が原告主張の登記ないし仮登記を有していることは認める。
二 同五の各事実については、被告大山らの認否のとおり。
(被告大山らの主張)
一 本件池の民有区分
本件池が、字三尾山の山林の一部として(全体で一筆の土地として)、地租改正事業における官民有区分の過程で民有地第二種に区分されたことは、次の事実から首肯できる。
1 本件池の築造時期について
本件池は、旧中野村の官民有区分が終了した当時はもちろん、明治二二年当時も周囲に広がる字三尾山の山林の一部であり、明治三六年に現在の一条通り(現府道)が新設された際に、右一条通りを堤体として築造されたものである。
したがって、地租改正や地押調査の各事業の中で、本件池が官有区分されることはありえず、周囲に広がる字三尾山の山林の一部として、地租改正事業の中で旧中野村の村中地として民有地第二種に区分されたことが明らかである。
2 本件池等三つの池の築造方法について
仮に、明治三六年より前に、本件池が存在していたとしても、地形からして、本件池は、民有地たる山林内の窪みを利用し、堰を設けて天然の雨水を溜めて築造された人工的な養水溜池であり、門徳池、弁慶足形池も同様の築造方法による人工的な養水溜池と考えられるから、三つの池が本来山林の一部に属すべきものと理解され、地租改正事業における官民有区分の過程において、字三尾山の山林が三つの池を含めて一筆の土地として「民有地第二種」に区分されたものである。
3 官有地一筆限調簿・附属地図及び官有土地目録について
(一) 官有地一筆限調簿・附属地図
京都府土木建築部用地課国有財産係保存の「明治十八年十二月調、中野村官有地一筆限調簿」(以下「本件官有地一筆限調簿」という。)およびその附属地図たる「葛野郡中野村地図」(以下「本件地籍図」という。)は、他の村のそれとともに、内務省の地籍編纂事業の成果をまとめたものであるが、右調簿および地図には、旧中野村内の官有地が、「小径・溝渠、土揚、岸」のたぐいに至るまで、くまなく拾いあげられ、かつ、細かく丈量され(「巾三ト」のものまで丈量されている。)、また、右調簿および地図との対比が可能なようにことごとく付番され、それが双方に記載されているのに、本件池、門徳池、弁慶足形池は右調簿に全く記載されていない。
(二) 官有土地目録
京都府の「明治二四年三月三一日現在官有土地目録」(以下「本件官有土地目録」という。)は、明治二三年一一月二四日勅令第二七五号官有財産管理規則、同日勅令二七六号官有地取扱規則の制定に伴い、明治二四年三月内務省訓令第一九三号をもって調整し、報告すべき旨訓令せられたることにより作成されたものであるが、右土地目録には、全ての官有池がことごとくいったんは記載されているのに、本件池、門徳池及び弁慶足形池は登載されていない。
(三) 両簿冊の性格と関連
官有地一筆限調簿は、その作成後の官有地変動を明らかにしうるようになっており、官有土地目録は、明治二四年から大正一〇年に至るまでの一〇年毎に新調され、各一〇年間の経年的変化を記載しており、両者共官有地についての台帳的性格を有し、しかも両者には連続性・関連性が存するのであるから(例えば、本件官有地一筆限調簿の表紙裏に「○」印が付され、「土地台帳ニ記ス」と記入されているが、これは、本件官有地一筆限調簿に登載されている官有地のうち「○」印のものについては、規則や訓令に従って本件官有土地目録に移載されたことを示している。)、全ての官有地は、一貫して自らを官有地として表示する場を歴然と有していたといえるところ、本件池、門徳池及び弁慶足形池は、本件官有地一筆限調簿及び本件官有土地目録に記載されておらず、明治一八年一二月段階でも、明治二四年三月三一日段階でも、いずれも官有地として取り扱われていないのであるから、それより以前、即ち地租改正事業の過程で民有区分されていたことが明らかである。
4 門徳池の形状について
本件地籍図によれば、門徳池は、もともと文徳天皇陵参道東側部分にまで拡がっていたが、明治四〇年代頃までに行われた右参道の整備により、右東側部分が干上がり山林に復してしまった。
右山林は民有であるから、門徳池はもともと民有区分されたと考えるべきで、官有区分されたのなら、干上がりによって、官有地が民有地に化けたことになってしまい、不合理である。
5 本件池、門徳池及び弁慶足形池の占有・管理状況
本件池、門徳池及び弁慶足形池は、前記2のとおり人工的に築造されたものであり、本件池から水下の農地への水路をも含め、設置・管理してきたのは、水下農民で構成する旧中野村水利組合であり、同組合の負担・費用によって設置・管理されてきたものであり官有ないし国有財産として管理されてきた形跡は全くない。
したがって、右設置・管理状況からして、本件池、門徳池及び弁慶足形池には、「民有の確証」があったものとして、官民有区分の基準に照し、民有区分されたのは当然のことである。
二 被告大山に、二重の意味で登記の推定力が働くこと
1 民有地推定について
本件池は、本来京都市右京区太秦三尾町一番一の土地の一部として地図訂正処分がなされているところ、登記はその記載事項につき事実上の推定力を有し、登記事項は反証のないかぎり真実であると推定すべきであるし、土地の表示の登記ないし土地の表示に関する変更・更正の登記は、登記官が職権をもってなすべきものであるから、表示登記及びその附属図面の変更・更正に強い推定力が認められ(最高裁第三小法廷昭和四六年六月二九日判決、判例時報六三五号一一〇頁参照)、本件池は、右一番一として民有地の推定を受けるというべきである。
2 所有権者の推定について
被告大山はその登記名義の存在により、所有権そのものの推定を受けるのはいうまでもない。
(被告大山らの主張に対する原告の反論)
一 本件池の民有区分
1 本件池の成立時期について
京都府地誌葛野郡村誌や本件地籍図によれば、本件池は明治初年以前から存在していたことが明らかであり、被告大山ら主張のように、明治三六年以降ないし明治二二年以降とするならば、土地台帳及び附属地図の記載からして説明困難な問題が生じる。
2 本件池の築造方法について
河川や海岸のように、ほとんど自然に生成した場合は別として、池や里道については何らかの人工的な造作が加わっている可能性が高いものである。しかしながら、池や里道のように人工的な要素が加わっている場合においても、長年公共の用に供せられ、その築造時期が近代的所有権創設前にさかのぼる場合においては、高請地内に築造されたものでない限り池は民有に区分されることはなかったのである。
したがって、かつて正租を賦課されていなかったことが明らかな字三尾山の山林においては、明治前、人工的要素が加わって本件池が生成したと仮定しても、本件池はやはり官有に区分されたとの結論に帰着するのである。
3 官有地一筆限調簿・附属地図及び官有土地目録について
(一) 官有地一筆限調簿・附属地図
被告大山らは、本件官有地一筆限調簿及び本件地籍図の精度の高さ等をるる主張し、そのことから本件池が民有に区分されたという結論を導こうとするようでもあるが、個々の土地について正確な測量がなされ、右一筆限調簿及び右地籍図上に個々の土地の地積、範囲及び位置関係等が正確に記載されているか否かの問題と、右地籍図に記載されながら右一筆限調簿に登載されていない土地についての官民有区分の有無の問題とは無関係である。個々の土地の測量等が正確になされ、右地籍図に記載されていることは、右個々の土地が脱落地でないこと及び右個々土地についての位置、地形及び地積の正確性を推認させるかもしれないが、それ以上にすべての土地について官民有区分が決定されたことまでも意味するものではない。
ところで、右一筆限調簿に本件池が登載されていない理由としては、論理的には次の四つの場合があり得る。
(1) 右一筆限調簿作成の基礎となった調査時点ではいまだ本件池の存在が認識されておらず、官民有区分作業が全く及んでいなかった場合、すなわち、当時一種の脱落地であった場合
(2) 右調査時点までに既に民有に区分されていた場合
(3) 右調査時点までに既に官有に区分されていたが登録漏れとなった場合
(4) 右調査時点までに本件池の存在は認識されていたが、官民有未定地であった場合
右(1)、(3)、(4)のいずれの場合でもないことが証明されるならば、なるほど消去法的に考えて被告大山らの主張は首肯できないわけではない。しかしながら、右(1)の脱落地である可能性については、その可能性はまずあり得ないものの、右(3)の登載漏れの可能性及び右(4)の未定地の可能性については、その可能性をいずれも否定し得ないというべきであり、むしろ、種々の証拠によれば、右(3)又は(4)(とりわけ(4))であったと認められるのである。
よって、被告大山らが右一筆限調簿に本件池が登載されていないことをもって直ちにこれが民有に区分されたというのは甚だしい論理の飛躍というべきである。
(二) 官有土地目録
京都府において、本件官有土地目録の作成作業に実質的に着手したのは、明治二四年三月半ば以降であり、わずか一か月余の期間しか作成に充てていない。しかも、その作成のための調査は、実地との照合はもとより、府の課員を各村に派遣することもせずに各村から郡役所を経て提出されたものにそのまま依拠したにすぎない。
この点からして既に本件官有土地目録は、当時の官有地の状況をすべて正確に登載したものか否か疑問が生ずる。
また、本件官有土地目録中、旧中野村に関する部分は、記載内容や作成経過等からして明治一八年作成の本件官有地一筆限調簿をそのまま転記したにすぎないとも推認される。そうすると、本件官有地一筆限調簿に登載されていない本件池が本件官有土地目録に登載されなかったのは当然である。
さらに、仮に本件池が明治二四年四月時点でいまだ未定地であったとすれば、これまた別の意味で本件官有土地目録に登載されなかったのは当然である。
したがって、いずれにせよ本件官有土地目録に本件池が登載されていない事実は、本件池が官有に区分されたとの原告の主張を覆すに足りるものではないし、まして、本件池が民有に区分されたことを直接証明するものでもないのである。
(三) 両簿冊の性格と関連
官有土地目録は、議会への報告を目的として明治二四年以降一〇年ごとに作成されたものであり、本来的には官有地の「台帳」ではない。
また、官有地一筆限調簿と官有土地目録一般についての連続性・関連性はともかくとして、本件官有土地目録は、本件官有地一筆限調簿を含む明治一八年官有地一筆限調簿記載の事項を、ほとんどの村で、そのまま転記して作成したものである(葛野郡中野村など五ヵ村のうち、転記に際して修正がなされたのは岡村一ヵ村だけである。)ものの、明治一八年官有地一筆限調簿記載の官有地のうち限られた地目だけが本件官有土地目録に転記されているのであるし、明治一八年官有地一筆限調簿の表紙裏に「○印」が付されている官有地の中で、本件官有土地目録に移載されていない土地は多数発見できる(その意味で、本件官有地一筆限調簿の「土地台帳に記す」の「土地台帳」とは官有土地目録ではない。)のであるから、本件官有地一筆限調簿を含む明治一八年官有地一筆限調簿と本件官有土地目録の間には関連性、連続性はない。
そして、明治以来現在に至るまで、本件池のような土地(又は講学上の「法定外公共用財産」)については、法令上作成を義務付けられた国有地管理上の基礎的公簿としての「台帳」は存在しなかったのである。そのため、全ての官有地が一貫して自らを官有地として表示される場を歴然として有していたとはいえず、本件池については、官有に区分された以後も終始右のような意味での官有地「台帳」、すなわち官有地として表示される場に登載される機会が与えられなかったというほかない。
4 門徳池の形状について
なるほど、本件地籍図には文徳天皇御陵前道路の東側にも水面を示すと思われる記載があるが、本件訴訟に提出された各種地図類の中でも、右御陵前道路の東側に水面があるかのような記載をした本件地籍図の方がむしろ異例に属するし、仮に本件地籍図の記載が真実であるとしても、それは右地図が作成されたと解される明治一八年当時の現況を作製者の認識したところにより記載したものと思われる。
そうすると、本件地籍図のうち右御陵前道路東側部分についての信用性が否定される場合は、右東側部分が元々山林であって民有区分されたことに不思議な点はないし、仮に、明治一八年当時、文徳天皇御陵前道路東側部分が地形的に門徳池の一部であったとしても、右御陵前道路の完成(右完成は少なくとも明治初期よりも相当以前である。)によって門徳池が東西に分断され、東側の部分についてはその面積が些少である上、水がたまることがほとんどなく、養水溜池としての機能を果たすことが全くなかったため、かえって村中持の山林の一部として認識され、当初から民有区分されたと考えても、何ら不自然な点は存在しない。
5 本件池、門徳池及び弁慶足形池の占有・管理状況について
旧中野村水利組合なるものが本件池を設置したなどということを認めるべき証拠はない。旧中野村水利組合又は中野村水利組合と称するものが近年存在するようではあるが、その実体は不明であり、これが明治期以来存在していたことを認めるに足りる証拠もない。
もっとも、明治期以来ある時期までは本件池から流出する水を灌漑に利用した地元民らが、何らかの管理を行ってきたことはあり得るかもしれない。
しかし、一般に法定外公共物といわれる本件のような溜池、あるいは里道、水路は、大半が国有でありながら、明治以来、その維持、管理の多くは、これを現に利用して便益を受ける地元民が行ってきたことは公知の事実である。そもそも、誰が利用し、また、事実上維持、管理してきたかは、当該土地の所有権の帰属とは全く関係のない事柄であり、ある時期まで本件池、門徳池及び弁慶足形池の管理に地元民らが関与してきたとしても、そのことは本件池等が民有に区分されたことを裏付けることには全くならない。
二 登記の推定力
1 民有地推定について
被告らは、最高裁第三小法廷昭和四六年六月二九日判決を引用するが、同判決の一般論はともかく、事案は、係争土地が一八〇番一(宅地)に属するかそれとも一四九番、又は一四六番一に属するかが争われたものであるのに対し、本事案における本件池は、周辺土地(山林)とは現況、地目とも異なり、かつ、別筆、無番地の土地として、明確に区別された土地であって、周辺のどの土地に帰属するかということは何ら問題となりえず、誰の所有に属するかということが争われているのであるから、本件は前掲判決とは事案を異にし、同判決を本件に引用するのは適切ではないというべきである。
仮に本件池が民有であるとの推定が一応働くとしても、既に述べたとおり本件池が上地又は官民有区分により原告の所有に属することは明らかであるから、右推定も覆されており、本件における原告の立証程度に照らせば、被告大山らが登記の推定力論を主張し、これに頼ろうとするのは全く無益というほかない。
2 所有権者の推定について
本件池については井上貞之及び井上道子と被告大山間の売買の対象となっておらず、被告大山は本件池につき何ら所有権を有しないのであり、この点と右地図訂正が権利者、地目等の異なる別筆の土地間の境界線を抹消するというものである点とを合わせ考えると、たとえ、被告大山所有名義の所有権移転登記がなされているとしても、当該登記は実体関係の裏付けはなく、登記の推定力が働く余地は全くないものというべきである。
さらに、既に述べてきたとおり、本件池は、原告が所有していることが明らかな土地であるから、仮に登記の推定力が働くとしても、推定された権利状態とあい入れない権利状態の立証もしくは推定された権利状態の不存在の立証が尽くされており、右推定は覆されたものというべきである。
第三証拠 <略>
理由
第一原告の被告大山らに対する請求
一 請求原因一の事実(ただし、本件各土地が本件池の一部であることを除く。)は当事者間に争いがなく、同二の事実は、原告と被告大山間で、同三のうち、被告商銀が原告主張の登記ないし仮登記を有していることについては、原告と同被告との間で、それぞれ争いがなく、同四の事実は当裁判所に顕著である。
なお、本件各土地が本件池の一部であることは、<証拠略>により是認できる。
二 請求原因五1(社寺領上知令に基づく所有権の取得)について
1 請求原因五1のうち、(一)並びに(二)(1)、(2)のうち大政奉還・版籍奉還・社寺領上知令及びそれに基づく上地の各効果以外の事実は、当事者間に争いがない。
2 そこで、社寺領上知令及びそれに基づく上知の効果(近代的所有権の確定を含むか否か)について判断するに、<証拠略>によれば、社寺領上知令発布以後、明治政府は、社寺領上知跡処分規則(明治七年)、地所処分仮規則(同八年)等を発布して、上知された土地について、官民有区分作業をなし、その中には社寺や農民等の所有地とされた土地もあったことが認められるから、社寺領上知令及びそれに基づく上地自体は、所有権の確定を含まず、その確定はその後の官民有区分作業に委ねられたと考えられるので、社寺領上知令及びそれに基づく上地自体で本件池が官有区分されたとすることはできず、また、本件池について、上記規則等に基づく官有区分されたとの証拠はなく、かえって後記三5に判示のとおり、明治二四年以降で本件字限図作成時点(明治二六年五月から明治二七年中)までの個別的な官民有区分によって官有区分されたと認められるから、結局、原告の右所有権取得原因に関する主張は理由がないといわねばならない。
なお、<証拠略>によれば、明治、昭和期に、社寺領上知令によって上地された土地が官有地となることを前提とするかの如き太政官布告、法律が存在することが認められるけれども、それらは、上地後の官民有区分作業を否定する趣旨とは解されず、むしろ、社寺領上知令により上知されて明治政府の管轄下に置かれ、その後の官民有区分作業によって官有区分された土地が官有地となるという程度の意味であって、結局、右太政官布告、法律のみを根拠として、社寺領上知令による上地の効果の性格付けをすることはできず、前示判断が左右されることはない。
三 請求原因五2(地租改正に伴う官民有区分による所有権の取得)について
1 請求原因五2(一)(1)ないし(7)(ただし、(7)のうち立証責任に関する主張を除く。)、(二)(1)、(2)(ア)、(イ)(a)ないし(d)、(3)(ア)ないし(ウ)、(4)(ア)、(イ)、(三)(1)(ア)ないし(エ)の各事実(以上、地租改正事業の概略、京都府における地租改正事業の経過・近代的所有権の形成過程、官民有区分認定の一般的基準)は、当事者間に争いがない。
ところで、官民有区分の法的性質については、近代的土地所有権制度のもとにおける所有権形成過程をどうみるかと絡んで種々の議論のあるところであるが、大別すると、既に実体的に形成されている実質的な所有権類似の権利(管理支配関係や支配進退とも称される。)を土地所有権として確認する行為であるとする説(以下「確認説」という。)と、旧来の支配関係ないし利害関係を一掃し、新しい近代的土地所有権を原始的に創設する行為であるとする説(以下「創設説」という。)に分かれる。しかしながら、主にこの議論が訴訟上意味を持つのは、被告大山らが度々援用する三田用水事件判決のように、官民有区分がされなかった脱落地や官民有区分未定地と呼ばれる土地の所有権を決する場合(確認説によれば、既に実体的に形成されている実質的な所有権類似の権利の帰属によって決せられるであろうが、創設説によれば、下戻法によって国有地となる可能性があろう。)及び官民有区分の無効を主張する場合(確認説によれば、官民有区分は単なる事実行為であるから、存在する官民有区分と異なる実質的な所有権類似の権利の主張をすれば足りるであろうが、創設説によれば、官民有区分は一つの行政処分であるから、重大かつ明白な瑕疵を主張しなければならず、具体的には、存在する官民有区分と異なる実質的な所有権類似の権利の主張だけでなく、官民有区分の基準に照らし右所有権類似の権利を無視したことの顕著性を主張しなければならないであろう。)であって、本件のように、官民有区分の存在自体が当事者間で争いがなく、その無効も問題とならず、官有区分されたのか民有区分されたのかのみが主要な争点の場合の立証責任については、右議論自体さしたる意味を持たないというべきである。けだし、創設説によれば、官民有区分が所有権取得原因であり、所有権を主張する者は、当然自己に有利な官民有区分を主張立証しなければならないし、確認説によっても、官民有区分が所有権取得原因ではないにしても、官民有区分は明治政府が基準を定めて全国的にかつ二〇数年かかって行った事業であり、自己に有利な官民有区分を主張立証できれば、その時点における所有権が事実上強く推定されるという意味で、官民有区分が、所有権取得原因類似のものというべく、所有権を主張する者は、自己に有利な官民有区分を主張立証しなければならないし、かつ、それで足りるといえるからである。その点で、所有権を主張する者が、自己に有利な官民有区分以上のことを主張立証しなければならないとする被告大山らの主張は採用の限りでない。
なお、下戻法(それが所有権取得原因になるにしても)や民法二三九条二項は、極めて例外的場合の規定であって、右規定を立証責任の分配について原則的に考えるのは公平性を欠くから、右規定に基づく主張は、自己に有利な官民有区分を立証できない場合の予備的請求原因と考えるべきであって、地租改正事業とのかかわりの中で所有権を取得したと主張する者は、その根拠となる官民有を主位的に主張立証すべきである。
そして、本件では、本件池につき、原告が自己に有利な官民有区分、すなわち明治二四年四月以降本件字限図作成時点までの官有区分の存在を主張するのに対し、被告大山らが右官有区分以前に既に民有区分が存在した旨主張するので、以下順次検討する。
2 そこで、まず、池の官民有区分認定基準について判断するに、前記1の争いのない事実(請求原因五2(三)(1)(ウ))及び<証拠略>によれば、池について、明治八年七月八日地租改正事務局議定「地所処分仮規則」第五章第一条が、民有の確証あるものは民有地となし、民有の証なきものは官有地となすとの一般原則を定め、それを具体化するものとして、一方で明治八年六月二二日地租改正事務局達乙第三号、同年一二月二四日同事務局達乙第一一号、翌九年一月二九日同事務局議定「山林原野等官民有区分処分派出官心得書」等山野と池を同列に置いた全国通達が、一方で各府県からの伺いに対する池そのものを対象にした個別の租税寮改正局・地租改正事務局等の指令が出されていることが認められるところ、右全国通達は、山野を念頭に置いた表現をとっており、池にそのまま適用できるか疑問が残るうえ、本件訴訟に現れた研究書(<証拠略>)は、多数の個別指令の検討とそれが全国配付されたとの事実から個別指令の方を重視する見解を採っており、十分首肯しうるものであるから、池について、原告主張の官民有区分基準が地租改正事業当時一定存在していたことを認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
そして、<証拠略>によれば、京都府において、池に、原告主張の官民有区分基準が適用された事例があることを認めることができる。
3 本件池に対する官有区分の存在について
(一) <証拠略>によれば、旧中野村に地租改正事業が及ぶ前の明治八、九年頃、旧中野村三尾山上にあった本件池、門徳池、弁慶足形池には(<証拠略>の記す「新池」が本件池を指し、「古池」が門徳池を指すことは後述する。)、税金(明治期の金納によるもの)が課されておらず、右三つの池の周囲の山林も土地の反別が判明しない状態であったことが認められる。
(二) ところで、右事実から前記2で認定した原告主張の官民有区分基準が適用されて原則どおり官有区分されたかどうか、明治の初期から時代を下る形で、本件池及びそれを含む旧中野村の官民有区分関係証拠を検討する。
(1) 壬申地券の交付
旧中野村について、本件訴訟に壬申地券は証拠として提出されておらず、この段階での旧中野村の官民有区分は明確でない。
(2) 郡村耕宅地の地租改正
前記1の確定事実によれば、京都府において、地所並収穫物地代価書上帳、一村字訳絵図、字限図(字限地絵図、字限絵図)が作成されたところ、前二者については、本件訴訟に証拠として提出されていないものの、<証拠略>によれば、旧中野村のうち、字京ノ道、字宮ノ前、字北路、字中筋、字開日及び字中山の計六字については、地租改正当時作製されたと認められる字限図(字限絵図)が現存しており、字御領田及び字堀池についても現存する字限図の記載内容及び貼付された紙片の記載等からして地租改正事業当時に字限図が作製されたことがうかがわれ(以上については、後記(6)で述べる。)、旧中野村では右八字において耕宅地改租事業が実施されたことが認められる。
そして、前記1の認定事実によれば、京都府における地籍編纂において、民有地は実地調査をせず、地租改正の際の一筆限帳を元に郡地籍が作成されたところ、<証拠略>によれば、山城国葛野郡地籍(明治一九年一二月調、以下「本件郡地籍」という。)に、旧中野村の民有地が地目ごとに整理されて筆数・方積の合計が記載されており、前段の八字について耕宅地改租事業ないしそれ以前に官民有区分の作業が行われたことを認めることができる。
(3) 山林の地租改正
前記1の認定事実によれば、京都府において、山林現地一筆限明細書上帳、見取絵図が作成されたところ、字三尾山についての右書類は、本件訴訟に証拠として提出されていない。しかしながら、<証拠略>によれば、本件郡地籍に、「民有地第一種、雑木山、弐筆、拾壱町四反壱畝廿四ト(歩)」との記載があり、<証拠略>によれば、土地台帳上、字三尾山の山林が明治二六年五月まで、右面積と全く同じ表示がなされているのであり、本件全証拠に照しても字三尾山の山林の他に、本件郡地籍の雑木山に該当するものは旧中野村に見あたらないから、右雑木山は、字三尾山の山林を指すものといえ、前記(2)で述べた本件郡地籍における民有地記載方法を考慮すると、結局、字三尾山の山林は、耕宅地改租又は山林改租事業か及びその事業中ないしそれ以前に民有区分されたことを認めることができる(本件郡地籍の「弐筆」との記載は、山林が二つに分けられたことを意味するものであるが、後の時代資料には、その旨の記載が一切ないので、改租事業後合筆された等種々の可能性が考えられるのであって、その詳細については不明である。)。
しかしながら、右山林と異なり、本件池、門徳池及び弁慶足形池には改租事業(郡村耕宅地改租及び山林改租事業)は及ばず、官民有区分はなされなかったと考えるべきである。けだし、本件郡地籍をみると、民有地、官有地いずれの欄にも右三つの池に該当するものが登載されていないし、字三尾山の山林の記載にも右三つの池は含まれていない(本件郡地籍における字三尾山の山林の面積表示は、前段で述べたとおり、土地台帳に引き継がれているが、右山林は、後記(6)(イ)、5前段のとおり、明治二七年に四七筆に分割され、その分割面積はほぼ均等であり、本件字限図及び本件旧公図上も、四七筆の中に右三つの池が含まれない形で表示されているのに、右分筆後三つの池について土地台帳等民有地を表示する手だてが全くとられていないことからして、土地台帳上の字三尾山の山林、ひいては本件郡地籍上の右山林には、右三つの池が入っていなかったと考えるのが自然である。)からである。
なお、地籍編纂事業の前に、後記(4)の税外地調査が存在しえたから、旧中野村の改租事業や官民有区分は、前記(2)の八字及び字三尾山について、税外地調査によったものとも考えうるが、前記1の認定事実によれば、民有地第一種については、郡地籍に合計として移記するのは改租事業の結果によったものであるから(字三尾山の山林も「民有地第一種」とされている。)、右見解は成立しない。
(4) 税外地調査
旧中野村の税外地調査に関する証拠は本件訴訟に提出されておらず、その内容は不明である。
(5) 地籍編纂
前記1の認定事実によれば、京都府において、官有地一筆限調簿、地籍図、郡地籍が作成されたところ、旧中野村では、右書類が現存する。すなわち、<証拠略>(本件官有地一筆限調簿)及び<証拠略>(本件地籍図)、<証拠略>(本件郡地籍)である。
本件官有地一筆限調簿の「九番字三尾山」の部を見ると、官有地として、「五番御陵」(官有地の種別及び反別略。以下同じ)、「六番道路」、「七番溝渠」、「八番同」、「九番同」及び「五番ノ一岸(御陵道岸)」の計六筆が登載されており、池は登載されていない。しかし、本件地籍図には、本件池、門徳池、及び弁慶足形池の位置形状が記載されている(ただし、地番の表示はない。)。また、本件郡地籍には、民有地第一種として、字三尾山の山林と考えられる雑木山二筆の記載があるが、本件池、門徳池及び弁慶足形池は、官有地、民有地がいずれにもそれらしき記載がない(なお、本件郡地籍には、「民有地第二種、溜池、三筆、四畝拾九ト」の記載があるが、<証拠略>によると、村中持である字中筋、同開日、同堀池の三つの池の面積合計が右記載と同一であるから、右記載は字中筋等の三つの池を指すものと認められる。そして、このことは、前記(2)の郡地籍における民有地の記載の仕方からして、字中筋、同開日、同堀池の三つの池が地租改正事業の中で民有区分されたことを示している。)。
右事実によれば、地籍編纂事業における官有地調査の段階で、本件池、門徳池、弁慶足形池及び山陵の存在が担当官に認識されたことは明らかである。そして、右調査中ないしそれ以前に文徳天皇陵が官有地に区分されたことも明白であるが、さらに進んで本件池、門徳池及び弁慶足形池がどのように官民有区分されたかは明確でない。
この点について、本件官有地一筆限調簿で、「九番字三尾山」の部が「五番御陵」から始まっており、一番ないし四番が空番となっていることを重視し、当時既に一番ないし四番と付番された四筆の民有地(字三尾山の山林、本件池、門徳池及び弁慶足形池)が存在していたので、従前無番地であった右六筆の官有地に五番から付番したか空番となった一番ないし四番のうち、一番は右一筆の山林を指すものであり、二番ないし四番は官民有未定地又は登録漏れ地である本件池、門徳池及び弁慶足形池を指すものであるとも考えうるが、いずれも根拠があるわけではなく、また、前記(3)のとおり地籍編纂の時点では、字三尾山の山林が二筆であった可能性も否定しきれないから、結局右いずれの見解も採用できず、本件池、門徳池及び弁慶足形池の官民有区分は不明というほかない。
(6) 地押調査
前記1の認定事実によれば、京都府において、土地台帳、字限図、町村図が作成されたところ、字三尾山についての土地台帳と、原告が字限図であると主張する書類が本件訴訟に提出されている。すなわち、<証拠略>(いずれも、字三尾山山林の土地台帳である。)、<証拠略>(以上、本件字限図である。)である。
本件字限図の成立の真正、信用性については争いがあるので、問題点を順次検討する。
(ア) 本件字限図の保管
<証拠略>によれば、本件字限図は、昭和五九年七月、京都地方法務局下京出張所において、同出張所職員によって、同出張所書庫において、元太秦村中野の字三尾山以外の八字の字限図八葉と共に表紙「葛野郡太秦村中野字限地図」と記された一冊の綴り(以下「本件字限図綴り」という。)として発見されたと認められるところ、<証拠略>によれば、地押調査により作成された地図(更正図)の正本は、国税徴収機関の変遷により、府県庁、郡役所、府県収税部出張所(土地台帳附属地図として)、税務署に順次引き継がれ、昭和二五年の「土地台帳法等の一部を改正する法律」(法律第二二七号)によって、土地台帳と共に法務局(登記所)に引き継がれたこと、字三尾山の管轄税務署は、もと下京税務署であったが、昭和二二年七月の右京税務署の開設により下京税務署の管轄が分割されたことに伴い、右京税務署に管轄替えとなり、昭和二五年の前記土地台帳法の改正により、右京税務署の土地台帳事務は京都地方法務局嵯峨出張所に、下京税務署のそれは同局下京出張所にそれぞれ移管されたことが認められ、右各認定事実によれば、本件字限図綴りは、本来の保管場所である京都地方法務局嵯峨出張所から発見されてはいないものの、昭和二二年当時、現に下京税務署において使用されていなかったため、右京税務署の開設に伴う右管轄分割の際、同税務署に移管されないまま下京税務署が保管を続け、昭和二五年の土地台帳事務移管の際、当時の下京税務署の管轄に対応する登記所である京都地方法務局下京出張所に移管され、その後発見されたものと推認することができ、このことは、現に使用されているマイラー図の元図である本件旧公図が京都地方法務局嵯峨出張所に存在すること(<証拠略>)からも裏付けられる。
被告大山らは、本件字限図綴りが前記下京出張所で発見されたのは不自然であり、誰かがひそかに持ち込んだものである旨主張するけれども、右のとおり本件字限図綴りが下京出張所から発見されたことに不自然な点はなく、被告大山らの右主張は結局推測の域を出ず、もとよりその主張を裏付ける証拠は全くないから、採用の限りでない。
(イ) 本件字限図の作成時期
本件字限図綴り(<証拠略>)に編綴された九葉の字限図のうち、本件字限図を除く八葉にはいずれも「八枚之内」なる記載又は紙片の貼付が見られることから、かつては太秦村中野の字限図は八葉であり字三尾山の字限図は作製されていなかったことが認められる。
そして、字京ノ道(<証拠略>)、字宮ノ前(<証拠略>)、字北路(<証拠略>)、字中筋(<証拠略>)、字開日(<証拠略>)、字中山(<証拠略>)の六葉の字限図は、<証拠略>(地租改正人民心得書)第五条の別紙雛形の体裁に大体一致するところ、右六葉の字限図にある「葛野郡第三区中野村」との記載について、<証拠略>によれば、京都府においては、明治五年五月各郡に区制が敷かれ、葛野郡は九区に区画されて旧中野村は第八区となり、明治六年一二月には、区の合併により葛野郡は三区画となり、うち旧中野村は第三区となったが、明治一二年三月、郡区町村編成法により区制は廃止され、これに代わって各郡に組制が敷かれたことが認められ、右事実によれば、旧中野村が「葛野郡第三区中野村」と称されたのは、明治六年一二月から明治一二年三月までの間に限定されるから、右六葉の字限図は、右の期間内に作製されたものといえ、右六葉の字限図は、地租改正時に作成されたものと認められる。
次に、字御領田の字限図(<証拠略>)は、「明治廿一年十一月照査之際図形相違ニ付新製」と記されていることから、その作製時期を容易に知ることができるのであり、その時期からして地押調査の結果を反映して新たに調製されたものと認められる。
また、字堀池の字限図(<証拠略>)は、「葛野郡中野村」との記載があり、反面「第三区」との記載がないこと等からして、地租改正後明治二二年四月の町村合併により中野村が「太秦村」に合併される(前記<証拠略>により認められる。)以前でかつ明治一二年三月以後に作製されたものと見られるし、また、字堀池の右字限図の裏面に「八枚之内」等と記載された紙片が貼付されていることも併せ考えると、字堀池の右字限図は、字御領田の場合と同様、新たに作製し直されたものと考えられ、前記1の認定事実及び<証拠略>によれば、かような字限図の新調がなされる機会として一般に最も考えられるのは地押調査の時であるから、字堀池の右字限図も、字御領田の字限図と同じく地押調査時(ただし、字御領田の字限図に比し、体裁は改租図に近いので、町村地図調製式及更正手續・町村製図略法(<証拠略>)発布以前のものと思われる。)に作成されたものと認められる。
これに対し、本件字限図の作製時期は、前記八葉より若干新しく、明治二六年五月から同二七年ころまでの間と認められる。すなわち、
(a) まず、本件字限図には「太秦村大字中野小字三尾山」との地名が記載されているが、「葛野郡中野村」は、字堀池の段でのべたとおり明治二二年四月から町村制施行に伴う町村合併により太秦村に合併され、「葛野郡太秦村大字中野」となったことからして、本件字限図の作製時期は、地押調査事業が終了し、これに基づく土地台帳制度が機能し始めていた明治二二年四月以降と考えられる。
(b) 本件字限図には、右「太秦村大字中野小字三尾山」との地名表題と、「壱番地山林」、「壱番地ノ壱山林」、「壱番地ノ弐山林」との地番の記載があり(なお、地番についてはいずれも朱墨で消去されている。)、また、字三尾山の中央よりやや北側を、東西に貫く道路が図面作成の頃から存在する形で(字三尾山の最北端を通る道路は、本件地籍図からして、地籍調査の頃から存在しているが、この道路との交点に書き加えの跡が全くない。)記載されているところ、<証拠略>によれば、地名表題と三筆の表示は同一人の筆跡によるものであり、また、字三尾山の山林は、当初、地番一番の村中持山林として土地台帳に登載されたが、明治二六年五月、道路開設によって一部が官有地第三種に編入され、残部が「壱番」、「壱番ノ壱」及び「壱番ノ弐」、の三筆に分筆されたことが認められる(<証拠略>の「官有地第三種ニ編入」とは、山林の三筆への分筆の必然性からみて、道路以外にはありえない。)から、本件字限図の記載と右事実を総合すると、本件字限図は、字三尾山の山林が、道路開設により、三筆に分筆された明治二六年五月以降の作成と考えられる。
(c) そして、本件字限図には、朱墨消去されていない「壱番ノ壱」ないし「壱番ノ四十七」の記載があり、<証拠略>によれば、前記「壱番地山林」等と、右「壱番ノ壱」ないし「壱番ノ四十七」の記載は別人によるものであり、また、土地台帳上、明治二七年一月二一日、前記三筆は四七筆に分筆され、いずれも個人有となっていることが認められるから、前述の「壱番地山林」、「壱番地ノ壱山林」及び「壱番地ノ弐山林」との各記載の朱墨による消去は、右四七筆への分筆の際になされたものと推認され、本件字限図は、遅くとも明治二七年には作製されていたものといえる。
(ウ) 本件字限図の使用時期と本件旧公図との連続性
以下に述べるとおり、本件字限図は、少なくとも明治三二年ころまで土地台帳附属地図として使用され、その後本件旧公図にとって替わられたものである。
(a) <証拠略>によれば、土地台帳上、字三尾山の山林は、明治二七年の四七筆への分筆後、明治三二年五月一一日一番ノ二八から一番ノ四八が分筆、明治三二年五月一一日一番ノ三一から一番ノ四九が分筆、明治三二年五月一一日一番ノ三四から一番ノ五〇が分筆され、その後分合筆が一時途絶え、明治四〇年以降再び分合筆がなされていることが認められるところ、本件字限図には、右明治三二年の分筆の記載はあるが、明治四〇年以降の分合筆の記載はない。このことは、本件字限図が少くとも明治三二年ころまで使用されていたことを示している。
また、右証拠によれば、土地台帳上、字三尾山の山林一番ノ四四、一番ノ四六、一番ノ四七については、明治三二年三月三日、「畑ニ開墾届出」との記載があるところ、本件字限図の右地番上には同一筆跡で「畑ニ開墾」と記載された付箋が貼付されている(<証拠略>)が、それ以上に地図上の訂正等の手当てはなされていない。このことは、明治三二年、役所に対し開墾の届け出がなされた後、その完了前に本件字限図が使用されなくなったものと推測できる。
(b) 本件字限図の他、太秦村大字中野に係る旧公図を撮影した写真であることに争いのない<証拠略>及び<証拠略>によれば、本件旧公図は、京都府に保管されている旧公図と記載内容がほぼ一致すること、右京都府保管に係る旧公図には「明治三一年八月調製製圖者南川基亮」と記載されていること、京都地方法務局嵯峨出張所に保管されている旧公図綴り中太秦村大字中野に係る旧公図のうち小字開日及び小字三尾山を除く七つの字については、右京都府保管に係る旧公図と同じく、いずれも左端の下部に「明治丗一年八月調製製圖者南川基亮」との記載があること、小字開日の旧公図については、左端に「明治丗一」との記載が認められるがそれ以下の部分は破損して欠落していること、小字三尾山の旧公図については、左端の下部が破損して全く存在しないこと、明治二九年から明治三一年ころにかけて旧中野村に限らず京都府下の広い地域で地図(土地台帳附属地図)が新調された形跡があること、葛野郡長も参加した明治二九年三月の郡長諮問会議において、従前収税署及び町村役場に備え置かれていた地図は不正確で新たな土地の異動等を記入するのに不都合を来すこともあることから、今後三年を期限として新たに地図を調製する方針が決定されていること、本件旧公図と本件字限図は、山林、溜池、道路の地形、区割、所在位置関係等がほとんど一致すること、前記(a)で述べた明治四〇年以降の分合筆が本件旧公図に記載されていることが認められる。
右認定事実によると、本件旧公図は、明治三一年頃作成され、その内容は本件字限図を引き継いだものであり、本件字限図に替って使用されたものといえる。
(エ) 本件字限図の記載形式
前記1の認定事実並びに<証拠略>によれば、字限図作成について、地租改正の際手本とされた地租改正人民心得書第五条の別紙雛形と、地押調査の際(厳密には地押調査の途中から)手本とされた町村地図調製式及更正手続第二項(ロ)号雛形との間には、次のような相違点があることが認められる(以下、本項では、前者を「地租雛形」、後者を「地押雛形」という)。
(a) 表題
地租雛形では無く、地押雛形では、村名、字番号、字名を記載している。
(b) 一筆の土地の表示
地租雛形では、地番(例えば「五番」の形)、字名、地目、面積を、地押雛形では、地番(例えば「五」の形)、地目、地位等級をそれぞれ記載している。
(c) 方位表示
地租雛形では無く、地押雛形では十字矢印で記載している。
(d) 隣接地表示
地租雛形では村名を、地押雛形では字名をそれぞれ表示している。
(e) 字限図表示土地の合計面積の表示等
地租雛形では記載が有り、地押雛形では無い。
(f) 作成年月日、作成者の表示
地租雛形では無く、地押雛形では有る。
そこで、本件字限図をみるに、右(c)ないし(e)の点では地押雛形に従い、右(a)、(b)の点では部分的に地押雛形に従い、右(f)の点では地押雛形に全く従っていない。その意味で、本件字限図は、記載形式において中途半端なものといえるが、この点は、本件字限図からみて当然のことであり、むしろ信用性を高めるとさえいえる。すなわち、前記(イ)、(ウ)のとおり、本件字限図は、明治二六年五月から明治二七年の間に作成され、少くとも明治三二年まで使用され、その後本件旧公図に引き継がれて、土地台帳附属地図としての役目を終えたものであり、使用期間の短かさや本件旧公図との連続性からして、土地台帳附属地図としては過渡的なものにすぎず、それ故に前記<証拠略>で認められるように、郡長諮問会議で新調製が決定されることになったのであって、その性格上むしろ中途半端な形式でこそ歴史的に存在の説明がつくものといえるのである(完全なものなら新調製は不要である。)。
被告大山らは、本件字限図が、地租雛形、地押雛形のいずれにも準拠しておらず、位置付けが不可能であると主張するが、右でのべたように、本件字限図は、部分的には地押雛形に準拠し、中途半端な形式でこそ歴史的に存在の説明がつくものであり、位置付けも、本件旧公図へ接続する過渡的な土地台帳附属地図ということが可能であるから、被告大山らの主張は採用の限りでない。
(オ) 本件字限図の正確性
前記(イ)、(ウ)のとおり、本件字限図は、字三尾山山林の明治二七年、三二年の各分筆を正確に表示し、明治三二年の山林から畑への開墾も、付箋によって正確に表示しており、内容の正確性は高いものというべきである。
被告大山らは、本件字限図は、文徳天皇陵前道路の東側に広がる門徳池の一部が表示されておらず、記載内容に誤りがある旨主張する。確かに、本件地籍図には、文徳天皇陵前道路の東側に門徳池が広がっている旨表示されているものの、それは、本件地籍図が作製された地籍編纂当時の現況を示しているにすぎないし、本件訴訟に提出された各種地図項中に本件地籍図のような記載をした地図は、<証拠略>を除いて、存在しない(例えば、<証拠略>、本件旧公図等は、すべて文徳天皇陵道路の西側にのみ門徳池があるように表示している。)のであって、文徳天皇陵及び門徳池等を撮影した写真であることに争いのない<証拠略>(ただし、写真のみ)によって認められる文徳天皇陵前道路東側の現況(水がなく雑草の生い繁る窪地となっていること)をも考え合わせると、文徳天皇陵前道路東側は、本件地籍図作成当時たまたま水がたまり門徳池の一部として認識された可能性があり、仮に右部分がもともと門徳池の一部であったとしても、水が溜まることが少なく、干上がった状態になることも多く、本件字限図作成の基礎となった調査の際には、干上って周囲の山林の一部と認識されうる状態であったとも考え得るから本件字限図の記載は誤りとはいえず、被告大山らの主張は採用の限りでない。
以上の検討結果を総合すると、本件字限図は、税務署を経て法務局に引き継がれたもので、その保管には歴史的に十分な根拠があり、作成時期が明治二六年五月以降明治二七年ころまでの間で、明治三二年ころまで使用された後、本件旧公図に引き継がれた過渡的な土地台帳附属地図であることからして、記載形式が中途半端なことに積極的意味合いがあり、記載内容も正確なものであるから、地図作成担当者によって真正に作成された信用性の高い地図と認めることができる。
そして、本件字限図には、本件池、門徳池及び弁慶足形池の部分にいずれも「官有溜池」との記載がある(当事者間に争いのない事実である。なお、右「官有溜池」との記載は、<証拠略>によれば、本件字限図作成時に記載された可能性が高い。)のであるから、本件池が官有区分されたことの有力な事情となる。
なお、本件字限図中「官有溜池」との記載の信用性については、<証拠略>(吉田敏弘大阪学院大学助教授の本件字限図についての見解)が否定的に解しているが、根拠が薄弱であり、また、前記<証拠略>の中味を誤解しているばかりか、後記(7)(ア)のとおり、本件字限図の内容を本件旧公図が引き継ぎ、本件池を青色着色しているのであるのであるから(この位置付けを、右<証拠略>はできていない。この点は、<証拠略>も同じである。)、右「官有溜池」との記載の信用性を否定するに足りないものというべきである。
(7) 本件字限図の作成・使用以降
(ア) 本件旧公図
前記(6)(ウ)(b)の認定事実によれば、本件旧公図は、明治三一年八月に作成され、本件字限図に連続するものと認められるところ、右旧公図中で、本件池、門徳池及び弁慶足形池の部分が、青色着色されて無番地となっていることは当事者間で争いがない。
まず、右青色着色の点であるが、<証拠略>によれば、地所処分仮規則(前記1の認定事実のとおり、明治八年の右規則が、官民有区分についての包括的細則基準を定めている。)第一章第八条に「渾テ官有地ト定ムル地処ハ地引絵図中ヘ分明ニ色分ケスヘキコト」と規定されており、その後官有地について取扱いを変更した規定は存在しないから、本件旧公図で、本件字限図の「官有溜池」の記載を引き継ぎ、官有地を示すものとして青色着色がなされたと認められる。右認定に反する被告大山らの、青色着色と官民有区分は無関係との主張は採用の限りでない。
次に、無番地の点であるが、<証拠略>によれば、明治八年の地租改正条例細目第三章第一条、京都府の地租改正人民心得書第八条及びその別紙雛形に、官民有を問わず池は付番することと規定されており、実際、旧中野村の隣村である旧宇多野村字音戸山の帯取池は、「二十一番、官三」と付番された官有地となっているから、無番地であることは、官有地を示す事情とは必ずしもいい難い。なお、下級審裁判例には、無番地の土地を官有地と認めた事例が存在するが(例えば、大阪地裁昭和五四年一〇月二五日判決、神戸地裁昭和五六年三月一〇日判決、熊本地裁昭和五七年六月一八日判決等)、右事例のほとんどが、用水路、河川敷、村道等で、地租改正条例細目第三章第一条但書によって「番外ニナシ」とされたものを対象とするものであるから、本件と事例を異にし、結局、本件池、門徳池及び弁慶足形池が無番地であることは、必ずしも官有地を示す事情とはならないというべきであり、その限度で被告大山らの主張は理由があるとはいいえても、これがために後示の本件池等三つの池が官有区分されたとの認定に影響を及ぼすものではない。
(イ) 本件文徳天皇陵墓地境界簿等
昭和五年に帝室林野局が作製した本件文徳天皇陵墓地疆界簿等(<証拠略>)には、門徳池について、「大字名 中野、字名 三尾山、地番 無地番、地目 官有溜池、現況 池、管理者又は所有者氏名 京都府知事」と明記され、地図上も門徳池の部分に「官有溜池」と記載されており、末尾には、隣接地管理者として「京都府知事佐上信一」の署名押印があることは、当事者間に争いがない。
そして、本件訴訟に表れた証拠のうち、本件池、門徳池及び弁慶足形池を記載した証拠は、記載内容の点で右三つの池をすべて同一に扱っているから(<証拠略>からして、右三つの池が同一に扱われたことは、被告大山らも認めるところである。)、本件文徳天皇陵墓地境界簿等の記載は、本件池が官有地であることを示すものといえる。
被告大山らは、右につき、隣接地立会に関する手続自体極めて事務的、形式的に処理されており、隣接地の記載も単に当時の帝室林野局官吏の個人的判断を記載したものにすぎず、門徳池も、水下農民らの灌漑に利用されていることから「官有」と即断・誤認されて記載されたものにすぎないと主張するが、右主張を裏付ける証拠はなく、かえって、<証拠略>によれば、天皇陵等御料地と呼ばれた土地を、帝室林野局が境界査定をするについて、御料地疆界踏査内規(明治二六年一月二〇日第三四八六号局長達)、御料地疆界踏査規定(明治三二年一二月一四日第六五二二号局長達)及び御料林野疆界査定規則(明治四四年一二月二九日宮内省令第一一号)が制定され、査定手続が詳細に定められたこと、本件文徳天皇陵墓地境界簿等(<証拠略>)には、右査定手続に従った記載があること(隣地所有者やその代理人の立会い、探求標の設置、隣地所有者の調印等)、同境界簿等には、当時の京都府知事、葛野郡太秦村長の署名・押印があることが認められ、右事実によれば、帝室林野局の個人的判断を記載したものとはいいがたいから、被告大山らの主張は採用の限りでない。
(ウ) 文徳天皇御陵根敷概測図
文徳天皇御陵根敷概測図を撮影した写真であることに争いのない<証拠略>によれば、明治四一年四月二〇日作成の同概測図の門徳池の部分に、原告主張の記載があることが認められ(右認定を覆すに足りる証拠はない。)、右認定事実は、前記(イ)の本件池、門徳池及び弁慶足形池が同一に扱われたことを考慮すると、本件池が官有区分されたことを示すものである。
(エ) 昭和一三年ころの道路用地寄附
本件旧公図、<証拠略>を総合すると、本件池南側に接する道路(通称嵐山街道、現京都府道宇多野・嵐山・樫原線、昭和六年から昭和三〇年一一月までの間は京都市管理)については、かつて池の南側に沿ってう回するように布設されていたが、急な坂道でかつ急カーブであり、車両の通行に危険であったため、昭和一三年ころに付け替え工事が実施され、右付け替え工事により本件池の一部を埋め立てる等してほぼ直線の道路としたものであること、右道路改修に伴う本件池の東西に隣接又は近接する新たな道路敷地はすべて周囲の土地から分筆を経たうえで、寄附を受けてその大部分が公簿上内務省名義に所有名義移転手続も完了しているのに、被告大山埋立て前の本件池の南側部分(別紙図面(二)中青色に着色した部分)及び弁慶足形池の一部(別紙図面(三)の青色着色部分)については、全く寄付は買収の手続がなされていないことが認められる。
右のとおり、周辺地については遺漏なく寄付及び分筆の手続を採った上で道路敷地に供されているのであって、本件池の南側部分及び弁慶足形池の一部についてのみ寄付又は買収の手続が遺漏したとは到底考えられず、本件池及び弁慶足形池が元々民有地ではなく、国有地と認識されていたから、寄付又は買収の必要性がなかったものというべきであり、以上の事情は、本件池が官有区分されたことを示すものといえる。
(オ) 地元住民の意識等
<証拠略>を総合すると、旧中野村字三尾山において、明治二七年に四七筆に分筆された各土地の所有者の承継人の中で、本件池について自己の所有権を主張する者は皆無であること、被告大山と売買奨約を結んだ一人である井上卓之も、本件各土地を国有地と考え、別紙図面(二)の黄色着色部分の所有権を主張していないこと(前記(エ)でのべた道路付け替えに伴う本件池の残地である。)、井上貞之の被相続人である故井上冨太郎は、前記(エ)でのべた道路付け替えのための敷地を取得していないこと、付近住民の意識も本件池は国有であるというもので、被告大山の本件池埋立行為に対し反対運動まで起きていることを認めることができ、右認定に反する被告大山進本人尋問の結果中該当部分は措信できない。
右認定事実によると、現在、被告大山以外に本件池について自己の所有権を主張している者は全くないのであるから、右事情は、本件池が官有区分されたことを示すものといえる。
(カ) その他
本件池が、土地台帳に記載されなかったこと、明治二六、二七、四三年の各部落有財産台帳に登載されなかったことは当事者間に争いがない。
右事実は、直接には、本件池が民有区分されなかったことを示すものであるが、本件では、本件池が官民有区分されたこと自体は当事者間に争いがないから、間接的に(しかも、一般的には、いわゆる登録洩地、移載洩地がありうるから、反証が成り立ちうるものである。)、官有区分の存在を示すものである。
4 被告大山らの主張一(本件池の民有区分)について
(一) まず、被告大山らは、本件池が、字三尾山の山林の一部として(全体で一筆の土地として)、地租改正事業における官民有区分の過程で民有地第二種に区分されたと主張するので、その根拠につき検討する。
(1) 本件池の築造時期について
被告大山らは、本件池が、明治三六年の一条通り新設の際、右通りを堤体として築造されたものであると主張し、その証拠として、<証拠略>(大日本帝国陸地測量部の明治二二年測量、明治二五年製版の地図。以下「明治二二年測量図」という。)及び<証拠略>(株式会社キンキ地質センター報告書。以下「キンキ報告書」という。)を挙げている。
まず、明治二二年測量図であるが、確かに同図には、門徳池及び弁慶足形池の記載があるも、本件池の記載はないから、右測量当時本件池は存在しなかったのではないかと考えられる。しかしながら、<証拠略>によれば、陸軍陸地測量部が明治一〇年代から明治二三年ころにかけて作成した測量図は、正規三角測量に基づかないばかりか、修技所を卒業した専門技術者の測量により作成されたものではなく、一般的に精度が劣るものであること、明治二二年測量図には、後年の測量図に記載されている池や天皇陵のいくつかが記載されていないこと、その中には明治二二年以前より存在していた池も含まれること、また明治二二年測量図は、後年の測量図に比して谷線の測量が不十分であり、山の高さも食い違っていることが認められ、右認定事実によれば、明治二二年測量図の正確性は低いものといわざるをえず、同図に本件池が記載されていないからといって、明治二二年に本件池が存在しなかったとは必ずしもいえない。
次に、キンキ報告書であるが、同報告書は、「ボーリング調査や室内土質試験の結果からすると、地層には池を形成する構造(形)がないから、道路盛土のような堤体がなければ池の形成はなかった。したがって、本件池南側の堤体様の道路新設によって自然発生的に貯水が生じ本件池が生まれたとする推定は充分に可能である。」というにある。しかしながら、同報告書添付の「調査位置図」「地質想定断面図」をみると、谷底から池底堆積物の形態からして、右堤体がなかったとしても本件池より小さいながらも水が溜まる可能性があり(A―A′測線図、B―B′測線図)、道路建設時に基礎固めのため、谷底層を固めたり削ったりしたこともありえようから(もしそうなら、水が溜まる面積は大きくなる。)、同報告書のみで堤体なければ池なしの可能性はあっても、その結論を導くことはできない。仮に、明治時代、右報告書添付図面のとおりの地質だとしても、堤体が現在の道路であるとは必ずしもいい難く(本報告書もそこまで断定はしていない。)、現に明治一八年一二月に調製された本件地籍図においては、道路が未だ新設されていないのに、本件池が記載されており(後に書き加えられたとの形跡は全くない。)、これらを考え合わせると、本報告書は、本件池が道路新築(明治三六年ではなく、前記3(二)(6)(イ)(b)のとおり、明治二六年である。)によって生じたとする決め手にならないというべきである。かえって、<証拠略>によれば明治八、九年ころにおける山川、森林、沼等の諸項目の状況を記したものである葛野郡村誌は、旧中野村の山につき「山 三尾山 一ツニ茶臼山ト云村ノ北ニアリ(中略)三箇ノ溜池アリ(後略)」と、また池沼について「古池 三尾山上ニアリ四履詳ナラズ周囲三町三十間 新池 前同所ニアリ四履詳ナラズ周囲二町廿六町(間)弁慶足形池 前同所ニアリ四履詳ナラズ周囲三町二十間皆養水ニ供ス」と記していること、古池とは門徳池であること、埋立て前の本件池の周囲が二四四、二六メートルであり、右新池のそれとほぼ一致することが認められ、字三尾山上には本件池、門徳池、弁慶足形池の他に池が存在したとは本件訴訟の全証拠に照してもうかがえないことをも考え合わせると、葛野郡村誌の新池とは本件池のことであると認めるのが相当であり(なお、<証拠略>には、「新池」についての記載があるが、この池は、右<証拠略>の記述にもあるとおり葛野郡花園村(現京都市右京区鳴瀧嵯峨園町)に所在していたものであり、<証拠略>にも、文徳天皇陵の西南西旧中野村外に四角の池として記載されているのであるから、「葛野郡村誌」にいう「新池」とは全く別物である。)、したがって、本件池は明治八、九年には既に存在していたと認めることができ、結局、被告大山らの主張は採用の限りでない。
(2) 本件池等三つの池の築造方法について
被告大山らは、明治三六年以前より本件池が存在していたとしても、門徳池、弁慶足形池と共に堰を設けて築造した人工的な養水溜池であって、山林の一部と理解されていた旨主張する。
しかしながら仮に三つの池共人工的な養水溜池であるとしても、前記認定のとおり、本件池を含む三つの池は官民有区分がなされるかなり以前の明治八、九年ころから存在し、山林とは地目が異なり、また面積も割とあるのであって、官民有区分の際に、山林に含ましめたとするのは不合理であり、もし含ましめたのなら、山林の所有者と堰等の設置者が同一であることが前提になるが、その証拠は全くない。
よって、被告大山らの主張は採用の限りでない。
(3) 官有地一筆限調簿・附属地図及び官有土地目録について
(ア) 官有地一筆限調簿・附属地図
前記1の認定事実によれば、本件官有地一筆限調簿及び本件地籍図は、内務省の地籍編纂事業の成果であると認められ、右調簿及び地籍図をみると、被告大山ら主張のとおり、旧中野村の官有地が詳細にとり上げられ、丈量・付番もなされているのに、本件池、門徳池及び弁慶足形池が右調簿に官有地としてとり上げられていないことが認められる。
しかしながら、右事実をもってしては、直ちに本件池等が民有区分されたことにはならないというべきである。すなわち、本件官有地一筆限調簿は官有地を表示しているのであるから、そこに登載された土地が官有区分されたものであるといえるにしても、登載されなかった土地については、民有区分された土地である場合のほか、官有区分されたが登録漏れとなった土地である場合、官民有区分未定の土地である場合等色々な可能性があるところ、本件の場合、民有区分された土地以外の可能性をまったく否定し去る証拠は存在しないからである。
(イ) 官有土地目録
<証拠略>によれば、本件官有土地目録は、被告大山ら主張の規則・訓令に基づいて作成されたものであり、社地、寺地、塚地、荒蕪地等が記載されていること、公共の用に供されている河海池沼道路については記載しない方針であったが、右のうち池は一たん記載された後、朱抹されていること、しかしながら、本件池、門徳池及び弁慶足形池は、一たん記載されることすらなかったことが認められる。
そして、<証拠略>(宇多野村官有地一筆限調簿・地籍図)、<証拠略>(岡村官有地一筆限調簿・地籍図)、<証拠略>(花園村官有地一筆限調簿)、<証拠略>(常盤谷村官有地一筆限調簿)と本件官有土地目録を比較すると、各官有地一筆限調簿・地籍図に官有地として記載されていない土地が本件官有土地目録に記載されていたり(大字宇多野小字妙見の塚地、大字岡小字池ノ上、同百々池等の池、大字花園小字扇野、同内畑の池、大字常盤谷小字段ノ上の池。以上本件官有土地目録の表示による。)、逆に官有地一筆限調簿・地籍図に官有地として記載されている土地が本件官有土地目録に記載されていなかったりしており(宇多野村字音戸山の官山以上宇多野村官有地一筆限調簿の表示による。)、地籍編纂後の官民有区分や官有地の変動をも本件官有土地目録が掌握している部分が存することが認められ、しかも、本件訴訟に提出された各地図及び<証拠略>によれば、旧宇多野村、同岡村、同花園村及び同常盤谷村は、本件で問題となっている三つの池が存在する旧中野村の近隣に所在し、しかも、旧常盤谷村は明治二二年の町村合併により、本件官有土地目録作成当時旧中野村と同じく、太秦村の大字となっていることが認められ、以上によれば、旧中野村においても、地籍編纂後の官民有区分や官有地の変動を考慮して本件官有土地目録の記載がなされたといえるから(ただし、右各村と異なり、官有地一筆限調簿の記載と官有土地目録に登載されるべき土地についての記載の間に特に相違点はない。)、前段の事実は、明治二四年四月中旬ころまで(<証拠略>によれば、本件官有土地目録作成のための調査は、明治二四年四月中旬ころまで続いたようである。)に、本件池、門徳池及び弁慶足形池が官有区分されなかった可能性があることを示している。しかしながら、さらに進んで、前段の事実が、右三つの池の民有区分の存在を示しているとはいえないというべきである。けだし、前記(ア)のとおり、官有区分されていない土地の官民有区分については、色々の可能性があるところ、<証拠略>によると、原告の反論のとおり、本件官有土地目録は全体的には、短期間のうちに作成され、京都府において実地照合や課員の派遣がなされず、各村から郡役所を経て提出された資料に基づいて作成されたにすぎないことが認められるのであって、登録洩地や移載洩地の可能性があるうえ、仮に右の可能性がないとしても、官民有区分未定の土地の可能性も否定することはできないからである。
(ウ) 両簿冊の性格と関連
<証拠略>によれば、国有(官有)財産及びそのなかで主要な部分を占める国有(官有)土地の管理に関する統一的な法令は、明治二三年一一月勅令第二七五号官有財産管理規則制定以前には存在せず、国有土地の管理についての一般的規則は、右規則に前後して制定された、明治二三年七月勅令第一三五号官有地特別処分規則、同年一一月勅令第二七六号官有地取扱規則をもって初めとすること、そして国有地管理上必要な台帳に関しては、右官有地取扱規則第一七条に、「官有地台帳ニ関スル規定ハ別ニ之ヲ定ム」とのみ規定され、しかも、このような規定は、その後ついに作成されず、国有林野・各省の官用地以外の国有(官有)地についての台帳組織は、不備・不完成のまま推移したこと、一方、「官有財産目録」は、右官有財産管理規則の第一六・一九条によって規定され、帝国議会への報告を目的として各省大臣に作成が命ぜられたものであって、右官有地取扱規則の定める「官有地台帳」とは、全く別物であること、その後国有財産に関する一般規定である旧国有財産法(大正一〇年四月法律第四三号)が制定され、同法は、第二五条で「国有財産ノ種類ニ従ヒ其ノ台帳ヲ備フベシ」と定め、第二六条で、政府が毎会計年度ごとに国有財産増減総計算書を、五年ごとに国有財産現在額総計算書(先の官有財産管理規則の官有財産目録に該当する。)を、調製し、会計検査院の検査を経て、帝国議会に報告すべきことを定めており、ここからも、官有地台帳と官有財産目録とは、異なった法の条項で規定され、別個の目的で調製されるものであることが明らかであること、そして、同法は、面積広大のため、台帳等の整備に費用がかさむ公共用財産に関しては、付則第二八条で「第二十五条及第二十六条ノ規定ハ当分ノ内公共用財産ニ付之ヲ適用セズ」と規定し、台帳(および国有財産増減総計算書・国有財産現在額総計算書)の整備を免除し、昭和二三年六月三〇日法律第七三号の現行国有財産法三八条、同法施行令二二条の二も、本件池のようないわゆる法定外公共物については台帳を作成しないことを規定していることが認められ、右事実によれば、原告の反論のとおり、官有土地目録は土地台帳ではないし、特に法定外公共用財産については、官有地として表示する台帳が全くなかったのだから、全ての官有地が一貫して自らを官有地として表示される場を有していたとは到底いえず、被告大山らの主張はその前提を欠くものといわなければならない。
もっとも、<証拠略>によると、官有地一筆限調簿も参照して本件官有土地目録が作成されたと認められ、また、作成者、作成時期、作成目的からして、一〇年毎に作成された官有土地目録もその前の官有土地目録を参照したであろうことは容易に推測がつくし、証人小島清邑の証言によると、官有土地目録は、国有財産台帳の走りであるとの位置付けも可能であるから、本件官有地一筆限調簿、本件官有土地目録、その後一〇年毎の官有土地目録、国有財産台帳の間には、一定の流れがあるといえ、前記(ア)、(イ)及び前段で認定した事実並びに<証拠略>によると、右一定の流れの中に本件池等は一度も登場せず、建設省や京都府もそれらを実質的に管理してこなかったものと認められ、右認定事実によれば、<証拠略>(建設省が本件池を国有地でないと判断した文書)が出された理由も良く理解しうるところである。
しかしながら、右の事情は、原告の本件池等に対する管理の不備等を示すに止まり、さらに運んで民有区分の存在を示すものではないというべきである。すなわち、前記(イ)のとおり、本件池を含む三つの池が、本件官有地一筆限調簿、本件官有土地目録の両方に登載されていないことは、これらが作成された当時においては、右各池が官有区分されなかった可能性を示すにとどまり、官有区分がなされていないのであれば、むしろ登載されていないのは当然であるといえるし、その後一〇年毎の官有土地目録や国有財産台帳に登載されていないことは、前記認定事実によれば、法の不備が重なった結果生じたものと理解できるし、建設省や京都府が実質的に管理してこなかったことも、地元住民の便益に供してきたという法定外公共物の性質から理解しうるところであって、このように考えると、本件官有地一筆限調簿、本件官有土地目録やその後の官有土地目録、国有財産台帳に登載されていないことをもって直ちに民有区分がなされたとまでは推認するに足りない。
以上よりして、被告大山らの主張は、採用の限りでない。
(4) 門徳池の形状について
前記3(二)(6)(オ)のとおり、本件池と官民有区分が同一であったと考えられる門徳池の文徳天皇陵前道路(参道)東側部分は、本件地籍図作成の際には、門徳池の一部であったものがその後干上り、山林の一部になった可能性のあることは認められるけれども、もともと門徳池の一部ではなく、本件池籍作成の際にたまたま水がたまり門徳池の一部として認識された可能性もあるうえ、仮に右のとおりもともと池であったものが、干上がったものであるとしても、門徳池の官有区分の際にはすでに干上がっていた可能性もあり、そうだとすると、門徳池の官有区分の際には、右道路東側部分は既に山林の一部と認識される状態であったといえる(なお、明治二二年測量図では、右道路前東側部分は既に山林の一部である。ただし、右測量図の信用性は、前記(1)のとおり、低いといえるから決定的なものではない。)から右道路前東側部分が山林として民有区分されたことと、門徳池が官有区分されたこととは必ずしも矛盾するものではなく、被告大山らの主張は採用の限りでない。
(5) 本件池、門徳池及び弁慶足形池の占有・管理状況について
被告大山らは、本件池、門徳池及び弁慶足形池並びに本件池から出る水路の設置・管理者を旧中野村水利組合である旨主張するが、そもそも右三つの池が人工的に設置されたことには、前記(2)のとおり、疑問があり、仮に人工的なものであるとしても、右水路(<証拠略>により、人工的なものとして存在していることが認められる。)を含めて、その設置・管理を、明治時代初期から旧中野村水利組合が行ってきたとの証拠はないうえ、そもそも、旧中野村水利組合の設立時期、実体、水利組合法上の組合性等についても明らかでないから、被告大山らの主張はその前提に疑問があり、採用の限りでない。
(6) 乙第三七号証(甲斐道太郎意見書)について
字三尾山の山林が、本件池等を含めて民有区分されたとの被告大山らの主張を裏付ける証拠として、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる乙第三七号証がある(以下「甲斐意見書」という。)。
右甲斐意見書は、結論として本件池は民事に区分されたというようであり、山林改租の際、文徳天皇陵と共に本件池の存在が認識されないまま周囲の山林とともに(又は山林の構成部分として)字三尾山の一個の山林として民有に区分されたものというようである。そして、右意見書によれば、地租改正事業において、地目、所有者を異にする複数の土地が一筆に包含されることは本来なかったことは認める趣旨と解されるが、右意見書は、本件池はその存在が認識されなかったため、「事実において」地目を異にする本件池が存在しないものとして一筆の山林として民有地とされ、池は本来民有地であるのが原則であるから、明治一八年の本件官有地一筆限調簿作成時においてもそのまま民有地として是認され、したがって、右一筆限調簿に記載されなかったのであり、その後公簿に記載されず、国有地として管理されなかったことが右意見を裏付けるというようである。
しかしながら、まず、その存在が認識されていない土地について、官民有区分がなされ、民有地とされたと評価するのは法理論上既に矛盾であり、担当者にその存在が認識されていなかった以上、法的にはもちろん事実としても、本件池について官民有区分がなされたということはできず、官民有区分の対象となったのはあくまで存在が認識されていた山林のみというべきであり、このことは、前記3(二)(3)のとおりである。
次に、「池は民有地が原則」などというのは全く根拠のない見解であり、公簿不登載や国有地として管理されなかったことについても、前記(3)(ウ)のとおり、必ずしも民有区分がなされたことを示すものではないうえ、民有区分がなされたとしながら土地台帳及び登記簿に民有地として登載されなかったことの理由については何らの説明もなし得ていないのであって、右意見書の立場には種々の点において疑問があり、到底採用し得ない見解といわなければならない。
5 まとめ
以上検討したところによると、被告大山らが、本件が字三尾山の山林の一部として(全体で一筆の土地として)、地租改正事業における官民有区分の過程で民有地第二種に区分されたと主張する根拠は、すべて失当であるのみならず、被告大山らの主張どおりとすると、説明困難な事情が存する。すなわち、<証拠略>、本件字限図及び本件旧公図並びに<証拠略>によると、字三尾山の山林は、土地台帳上一筆の土地として村中持とされていたが、明治二六年五月三筆に分筆され、翌年四七筆に分筆されて各々個人有とされ、右四七筆の中に本件池、門徳池及び弁慶足形池が含まれていなかったこと、そうすると、本件池等三つの池は、村中持として残されるか、又は個人有(一名の単独所有、二名以上の者による分割所有又は狭義の共有)とされているはずであるから、土地台帳及びその附属地図に記載されることによってそのいずれであるかが判明するはずであるが、土地台帳、本件字限図及び本件旧公図その附属図面には、本件池等三つの池が分割された形跡もないし、村中持として残された形跡もないこと、現在に至るまでの登記簿や明治二六、二七、四三年の各部落有財産台帳に一度も本件池等三つの池が登載されなかったことが認められ、このように分筆の過程からいって、本件池等三つの池が民有地ならば、何らかの形で、土地台帳、登記簿、部落財産台帳等の公簿に登載される可能性が高かったのに、それが現在に至るまで一度もなされなかったということは、とりもなおさず民有地ではないことを示す事情であって(民有地としての登載洩地や移載洩地の可能性は、簿冊の種類・数からして、ほとんどないというべきである。)、被告大山らの主張によっては説明困難である。
しかして、旧中野村字三尾山の山林は、地租改正(郡村耕宅地改租か山林改租)事業の中で民有区分されたことが認められるが、本件池、門徳池及び弁慶足形池には地租改正事業が及ばず、その官民有区分は地籍編纂事業まで不明というほかない。しかしながら、前記3の認定事実によれば、明治二六年五月から明治二七年ころまでの間に作成された本件字限図に、その作成時点において、本件池、門徳池及び弁慶足形池の部分に、「官有溜池」との記載がなされ、同字限図を引き継ぐ形で、本件旧公図に青色着色がなされ、その後、右三つの池の官有区分を裏付けるような書類の作成、道路用地の寄附、住民意識の形成等がなされたのであって、これらの事実を総合すると、本件池等三つの池が官有区分されたと推認することができ、その時期は、<証拠略>によれば、前記4(一)(3)(イ)のとおり、明治二四年三月三一日現在の官有地を登載した本件官有土地目録に本件池等三つの池が記載されていないことからして、明治二四年四月以降で本件字限図の作成時点(明治二六年五月から明治二七年中)までの時点であると認めることができる。
6 被告大山らの主張二(登記の推定力)について
被告大山らは、二重の意味で、被告大山に登記の推定力が働くと主張するが、どのような意味・範囲で登記の推定力をとらえるにしても、既に述べてきたとおり本件では、本件池が、周囲の土地(民有区分された山林)と区別されて官有区分されたことが立証され、原告の反論のとおり、反証が成功して推定が履されたのであるから、被告大山らの主張は採用の限りでない。
四 以上の次第であるから、本件池に対する官有区分によって官有とされた以上、下戻法の適用等によって権利変動があったことについて主張立証がない場合には、本件池すなわち本件各土地の所有権は、右官有区分によって確立されて以来、原告国に帰属し今日に及んでいるというべきであり、原告の被告大山らに対する請求はいずれも理由があるので認容されるべきである。
第二原告の被告朝信に対する請求
一 請求原因一の事実(ただし、本件各土地が本件池の一部であることを除く。)及び同三のうち、被告朝信が原告主張の登記ないし仮登記を有していることについては当事者間に争いがなく、同四の事実は当裁判所に顕著である。本件各土地が本件池の一部であることは前記第一の一の判断のとおりである(ただし、<証拠略>は、被告大山らが成立を認めるから真正に成立したものと認められるとする。)。
二 同五の各事実のうち、争いのない事実は、原告・被告大山ら間と同じであり、争いのある事実についても、共同訴訟における証拠共通の原則により、原告・被告大山ら間と同じ認定に達するから(なお、事実認定の根拠となる甲号証中、<証拠略>は、被告大山らが成立を認めるから原告・被告朝信間でも真正に成立したと認められ、その余の甲号各証は原告・被告朝信との間でも成立に争いがなく、また、乙号証中原告が成立を認めるものについては、それがために原告・被告朝信との間では真正に成立したものと認められるとする。)、結局、前記第一の二、三の判断のとおりとなる。
第三原告の被告新京都信販に対する請求
一 請求原因一の事実(ただし、本件各土地が本件池の一部であることは前記第二の一の判示と同じである。)、及び同三のうち、被告新京都信販が原告主張の登記ないし仮登記を有していることについては当事者間に争いがなく、同四の事実は当裁判所に顕著である。
二 同五の各事実のうち、争いのない事実及び争いのある事実並びに事実認定の根拠となる甲、乙各号証の成立について、前記第二の二と全く同じことがいえる(ただし、甲号証中<証拠略>以下で被告大山らが成立を認めるものについては、それがために原告・被告新京都信販との間では真正に成立したものと認められるとする。)から、結局、前記第一の二、三の判断のとおりとなる。
第四結論
以上第一ないし第三で検討したところによると、原告の本訴請求はいずれも理由があるから認容し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 鐘尾彰文 奥田哲也 浅見宣義)
物件目録 <略>
抵当権目録 <略>
地上権目録 <略>
別紙図面(一)、(二)、(三) <略>